立場茶屋
馬籠宿と妻籠宿の中間にある一石栃[いちこくとち]は、古くから旅人が疲れを癒す休憩地として栄えたところ。往時は界隈に7軒ほどの家が立っていたが、現在残るのは牧野家ただ1軒となる。南側が取り壊され、規模はやや縮小したものの、江戸時代後期の姿を今にとどめている。
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馬籠宿と妻籠宿の中間にある一石栃[いちこくとち]は、古くから旅人が疲れを癒す休憩地として栄えたところ。往時は界隈に7軒ほどの家が立っていたが、現在残るのは牧野家ただ1軒となる。南側が取り壊され、規模はやや縮小したものの、江戸時代後期の姿を今にとどめている。
大妻籠にある古民家で、17世紀中頃に建てられた、県内の民家でも有数の歴史ある建物。昭和53年(1978)県宝に指定された。
高遠さくらホテル南側の小高い場所に建つお堂。境内には樹齢140年と推定される大きな枝垂れ桜があり、勝間の里に春の訪れを告げる。老桜が3本並び、枝が風に揺らめく様は幻想的だ。遠景もみごと。
岩華観音は、開田の丸山観音、大桑村の岩出[いわいで]観音と並ぶ木曽三大観音に数えられている。かつて木曽路周辺では、生活に不可欠な牛馬の息災を祈念して、馬頭観音が人々の厚い信仰を集めた。これもそのひとつで、木曽義仲が祭った霊験あらたかな観音と伝えられている。祠は少々足場の悪い岩の上に立っているが、御嶽山の眺めがいい。
奈良井宿の北に位置する集落で、輪島や会津若松と並ぶ日本有数の漆器産地。街道に沿って木曽漆器を展示・販売する施設が点在する。近世以来の伝統的な町家や塗蔵などが一体となり、漆器生産の町として特色ある町並景観を表していることから、国の重要伝統的建造物群保存地区(漆工町)に選定されている。
長屋だった建物の一軒分だけを昭和43年(1968)に解体、建造当初の姿に復元された。片土間に並列二間取の形式をそのまま留めた、妻籠における庶民の典型的な家屋だ。内部には蓑[みの]や籠[かご]などの生活用具が置かれ、江戸時代の庶民の暮らしをうかがい知ることができる。
福島関所の関守を務め、木曽代官も兼務していた山村氏の屋敷の一部を所蔵品と併せて公開。当時の屋敷は隣接する福島小学校の敷地一帯に広がっていたが、現存するのは下屋敷の一部だった城陽邸と付属の庭園、本邸の石垣の一部のみ。城陽邸は享保8年(1723)に再建された建物で、書院造の座敷を中心とした数室からなる。その一室には山村家の守り神、木やりを唄うキツネ・お末社様とよばれ崇拝されたキツネのミイラが祭られている。山村家家臣の漢学者・石作駒石[いしづくりくせき]の書斎翠山楼も敷地内にある。所要15分。
山下家は、江戸中期から大馬主として財をなした豪農。本棟造[ほんむねづくり]の屋敷は長野県宝に指定されている。建物内では伝来の馬医書などを公開。隣の考古博物館では、柳又遺跡で出土した「柳又ポイント」と呼ばれる舌状突起を持つ有舌尖頭器など、開田高原で出土した石器などが展示されている。
武田信玄の命により高遠城が改築されたのは、天文16年(1547)のこと。武田流の戦略を考え合わせ、進歩した築城技術で築かれた名城であった。明治維新後、廃藩置県が行われると民間に払い下げられ、城は撤去。明治8年(1875)頃から桜が植え始められ、その後次第に拡張して現在の公園となった。5万4000平方mの敷地内に約1500本のタカトオコヒガンザクラが植えられ、4月上旬~中旬の満開の時期を迎えると「天下第一の桜」と称された桜を一目見ようと遠方からも多くの観光客が訪れる。
間口が狭く奥行きがある出梁造[だしばりづくり]が特徴の、奈良井の代表的民家。櫛問屋を勤めた中村利兵衛の屋敷として、天保8年(1837)の大火直後に建てられた。雨戸の役目を果たす蔀戸[しとみど]をはじめ、防火壁として設けられた袖壁、猿頭をあしらった鎧庇[よろいびさし]、情緒ある千本格子や潜[くぐ]り戸など、独特な造りがそのまま残る。屋内は、通り土間が裏まで続き、ミセノマ、吹き抜けのカッテ、ナカノマ、ザシキ、箱階段などが見られる。
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