
重要文化財 松下家住宅
松下家は古い歴史をもつ豪農の家柄。約190年前に建てられた主屋と、明和初期建築の土蔵が現存し見学可能。主屋は長野県南西部に多い切妻造り妻入の構造。
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松下家は古い歴史をもつ豪農の家柄。約190年前に建てられた主屋と、明和初期建築の土蔵が現存し見学可能。主屋は長野県南西部に多い切妻造り妻入の構造。
日本に二つしかない五稜郭のひとつ。函館五稜郭の四分の一の大きさ。江戸幕府の要職にあった田野口藩主松平乗謨(のりかた)が築城した。現在は堀と石塁のほか、「お台所」が残っており、4月中旬~下旬の桜が見事だ。隣接の「であいの館」には龍岡城跡の資料が展示されている。事前(見学希望日の2週間前まで)の予約により、20名以上であればボランティアによる説明も受けられる。
武田信玄の命により高遠城が改築されたのは、天文16年(1547)のこと。武田流の戦略を考え合わせ、進歩した築城技術で築かれた名城であった。明治維新後、廃藩置県が行われると民間に払い下げられ、城は撤去。明治8年(1875)頃から桜が植え始められ、その後次第に拡張して現在の公園となった。5万4000平方mの敷地内に約1500本のタカトオコヒガンザクラが植えられ、4月上旬~中旬の満開の時期を迎えると「天下第一の桜」と称された桜を一目見ようと遠方からも多くの観光客が訪れる。
奈良井宿の北に位置する集落で、輪島や会津若松と並ぶ日本有数の漆器産地。街道に沿って木曽漆器を展示・販売する施設が点在する。近世以来の伝統的な町家や塗蔵などが一体となり、漆器生産の町として特色ある町並景観を表していることから、国の重要伝統的建造物群保存地区(漆工町)に選定されている。
贄川駅から国道19号を塩尻方面へおよそ3kmほど行った、桜沢橋のたもとにある。江戸時代はここから南が尾張領、北が松本領だった。木曽路に入って最初の集落、桜沢で茶屋本陣を営んでいた百瀬栄[ももせさかえ]氏により、昭和16年(1941)に建立されたもので、石碑の裏には「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂[みさか]ニ至ル南二十余里ナリ」と刻まれている。桜沢には今も、冠木門[かぶきもん]が立つ旧茶屋本陣百瀬家の建物が残っており、往時のたたずまいを伝えている。
高遠さくらホテル南側の小高い場所に建つお堂。境内には樹齢140年と推定される大きな枝垂れ桜があり、勝間の里に春の訪れを告げる。老桜が3本並び、枝が風に揺らめく様は幻想的だ。遠景もみごと。
間口が狭く奥行きがある出梁造[だしばりづくり]が特徴の、奈良井の代表的民家。櫛問屋を勤めた中村利兵衛の屋敷として、天保8年(1837)の大火直後に建てられた。雨戸の役目を果たす蔀戸[しとみど]をはじめ、防火壁として設けられた袖壁、猿頭をあしらった鎧庇[よろいびさし]、情緒ある千本格子や潜[くぐ]り戸など、独特な造りがそのまま残る。屋内は、通り土間が裏まで続き、ミセノマ、吹き抜けのカッテ、ナカノマ、ザシキ、箱階段などが見られる。
南木曽町博物館のひとつで、宿駅が制定されてから代々妻籠宿の本陣・庄屋を務めた島崎家の邸宅。藤村の母ぬいの生家でもある。明治20年(1887)代に一度取り壊されたが、江戸時代後期の間取り図を元に再建された。島崎家の居住と、大名が泊まった御上段の間や家来が使った部屋まで、往時の姿のまま忠実に復原されている。
馬籠宿と妻籠宿の中間にある一石栃[いちこくとち]は、古くから旅人が疲れを癒す休憩地として栄えたところ。往時は界隈に7軒ほどの家が立っていたが、現在残るのは牧野家ただ1軒となる。南側が取り壊され、規模はやや縮小したものの、江戸時代後期の姿を今にとどめている。
西に伊勢山、東に南木曽岳と、緑深い遠景に囲まれて、南北に伸びる妻籠の旧街道。緩やかに上下する道筋を歩けば、古めかしく、どこか懐かしい木造家屋たちが時の旅路へと誘ってくれる。伝統建築家屋は奥行きが深く、出梁造りの2階建てになっているのが特徴で、江戸時代の旅籠や民家だった建物は、和カフェにみやげ物店、展示施設などになり、その姿を今に残している。武士や公家が宿泊や休憩に利用した本陣は、平成7年(1995)に江戸時代後期の間取り図をもとに復元した建物。平成13年(2001)に国の重要文化財に指定された脇本陣奥谷は、檜をふんだんに使い城郭を模して建てられたもの。ぜひ見学しにいこう。
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