上嵯峨屋
昭和44年(1969)に解体復元され、江戸中期に建てられた木賃宿[きちんやど]と推定される。中央の土間を挟んで両側に部屋が並ぶ、珍しい中土間形式の造りで、民家の歴史上貴重な建物。建築当初の形式をよくとどめている。旅人が集ったであろう囲炉裏[いろり]のある板敷きの部屋もあり、庶民の旅籠だった当時の雰囲気がうかがえる。
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昭和44年(1969)に解体復元され、江戸中期に建てられた木賃宿[きちんやど]と推定される。中央の土間を挟んで両側に部屋が並ぶ、珍しい中土間形式の造りで、民家の歴史上貴重な建物。建築当初の形式をよくとどめている。旅人が集ったであろう囲炉裏[いろり]のある板敷きの部屋もあり、庶民の旅籠だった当時の雰囲気がうかがえる。
木曽路の難所、鳥居峠を越える旅人が足を休めた宿場町。奈良井千軒と呼ばれ、木曽路十一宿の宿場の中でも一番の賑わいをみせた。度重なる火災に見舞われたが、江戸時代(天保年間以降)の建造物が多く残り、町並み全体が国の重要伝統的建造物群保存地区に選定。かつて漆櫛の問屋を営んでいた中村邸は国の重要文化財に指定。奈良井駅から南へ、千本格子の町並みが1kmほど続く。旅人が喉を潤した水場も随所にある。
松下家は古い歴史をもつ豪農の家柄。約190年前に建てられた主屋と、明和初期建築の土蔵が現存し見学可能。主屋は長野県南西部に多い切妻造り妻入の構造。
庭園の美しい大宝寺にある地蔵で、発見当時から首がなく、隠れキリシタンが観音像に似せてマリア像を作ったという伝説が残る。
木曽八景の一つ「棧の朝霞」で知られる棧(史跡)。古くから危ないもののたとえとして歌枕にもなった中山道の難所だ。かつては崖に沿って丸木と板を組んだだけの棧道が100mも続いていたが、江戸初期に焼失してしまい、その後石組に改築された。現在は棧の上を旧国道が走り、石垣の一部だけが残されている。
幕府が庶民に対し、禁制や法度[はっと]、罪人の罪科などを示した掲示板。現在の官報掲示板に当たる。脇本陣奥谷[おくや]から北に100m、江戸方面から宿場へ入る入り口付近にあり、江戸幕府の威信を示すためか人々を見下ろすような形で高札が掲げられている。現在見られる屋根付きの高札は、江戸時代の姿をそのままに復元したもの。掲示板の実物は、南木曽町博物館に収蔵展示されているので、あわせて見学したい。
檜、サワラなどの木曽五木をはじめとする、伐採禁止木の出荷を監視していた番所の跡地。当時は無断で木曽の木を持ち出すと「木一本首一つ」といわれるほど罰則が厳しかった。もとは妻籠の下り谷にあったが、寛延2年(1749)の山崩れにより一石栃に移され、以後統制は明治2年(1869)の藩籍奉還まで続いた。現在は木の柵が復元され、標示板が掲げられている。
贄川駅から国道19号を塩尻方面へおよそ3kmほど行った、桜沢橋のたもとにある。江戸時代はここから南が尾張領、北が松本領だった。木曽路に入って最初の集落、桜沢で茶屋本陣を営んでいた百瀬栄[ももせさかえ]氏により、昭和16年(1941)に建立されたもので、石碑の裏には「歌ニ絵ニ其ノ名ヲ知ラレタル、木曽路ハコノ桜沢ノ地ヨリ神坂[みさか]ニ至ル南二十余里ナリ」と刻まれている。桜沢には今も、冠木門[かぶきもん]が立つ旧茶屋本陣百瀬家の建物が残っており、往時のたたずまいを伝えている。
西に伊勢山、東に南木曽岳と、緑深い遠景に囲まれて、南北に伸びる妻籠の旧街道。緩やかに上下する道筋を歩けば、古めかしく、どこか懐かしい木造家屋たちが時の旅路へと誘ってくれる。伝統建築家屋は奥行きが深く、出梁造りの2階建てになっているのが特徴で、江戸時代の旅籠や民家だった建物は、和カフェにみやげ物店、展示施設などになり、その姿を今に残している。武士や公家が宿泊や休憩に利用した本陣は、平成7年(1995)に江戸時代後期の間取り図をもとに復元した建物。平成13年(2001)に国の重要文化財に指定された脇本陣奥谷は、檜をふんだんに使い城郭を模して建てられたもの。ぜひ見学しにいこう。
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