
龍岡城跡
日本に二つしかない五稜郭のひとつ。函館五稜郭の四分の一の大きさ。江戸幕府の要職にあった田野口藩主松平乗謨(のりかた)が築城した。現在は堀と石塁のほか、「お台所」が残っており、4月中旬~下旬の桜が見事だ。隣接の「であいの館」には龍岡城跡の資料が展示されている。事前(見学希望日の2週間前まで)の予約により、20名以上であればボランティアによる説明も受けられる。
- 「臼田駅」から徒歩20分/「龍岡城駅」から徒歩22分
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日本に二つしかない五稜郭のひとつ。函館五稜郭の四分の一の大きさ。江戸幕府の要職にあった田野口藩主松平乗謨(のりかた)が築城した。現在は堀と石塁のほか、「お台所」が残っており、4月中旬~下旬の桜が見事だ。隣接の「であいの館」には龍岡城跡の資料が展示されている。事前(見学希望日の2週間前まで)の予約により、20名以上であればボランティアによる説明も受けられる。
岩岳の麓を通る千国街道沿いにある石仏群。西国三十三番、坂東[ばんどう]三十三番、秩父三十四番を合わせた100体と弘法大師像や馬頭観音を含め、全部で187体の石仏が芝生広場を取り囲むように並ぶ。製作年などは定かでないが高遠石工の作と伝えられ、旅人の道中安全などを願ったもの。
青木湖北西岸の千国街道沿いに点在する観音石仏。江戸末期に佐野坂[さのさか]の庄屋が高遠の石工に彫らせたもので、雪深い佐野坂越えの旅人の安全を祈り、道しるべとして建てられた。現在、佐野坂には車道が通っているが、青木湖のエビスマ原まで樹木の根元に点々と観音像が佇んでいる。
明治8年(1875)に建てられた校舎は、全国に現存する擬洋風学校の中で最も古い建物の一つ。設計はアメリカに渡航し、建築を学んだといわれている地元出身の市川代治郎。ルネッサンスの石造建築を彷彿させる玄関やバルコニーに、明治初期の木造洋風建築の手法を見ることができる。塔に時を告げる太鼓が吊されていることから、太鼓楼の名が付いている。1階の半円形の欄間と2階中央廊下の丸窓には色鮮やかなステンドグラスが使用され、当時はギヤマン学校とも呼ばれていた。隣接する資料館には教育関係等の資料を展示している。
千国街道沿いの親の原には木々に包まれて百体(現在は88体)の観音像がある。江戸時代、伊那高遠の石工の作といわれ、西国三十三カ所、坂東三十三カ所、秩父三十四カ所の礼所を合わせ百として観音礼所巡りができるように彫られたものという。
「春は名のみの風の寒さや」で始まる春を待ちわびる早春賦の歌。大正初期に作詞・吉丸一昌、作曲・中田章により発表された。北アルプスを望む絶好の場所に大きな歌碑が立つ。
大正12年(1923)婦人記者、波多野秋子と心中を遂げた小説家・有島武郎の別荘、浄月庵[じょうげつあん]跡に建てられた石碑。傍らには武郎がスイスで知りあった少女、チルダに送った手紙の一節を英文で刻み込んだチルダ友情の碑もある。ほかにも、矢ケ崎川のほとりに立つ室生犀星[むろうさいせい]文学碑や、正宗白鳥[まさむねはくちょう]文学碑、芭蕉句碑など、軽井沢を訪れた文学者ゆかりの碑がいたるところにあり、文学碑巡りは軽井沢の魅力の一つとなっている。
武田信玄の命により高遠城が改築されたのは、天文16年(1547)のこと。武田流の戦略を考え合わせ、進歩した築城技術で築かれた名城であった。明治維新後、廃藩置県が行われると民間に払い下げられ、城は撤去。明治8年(1875)頃から桜が植え始められ、その後次第に拡張して現在の公園となった。5万4000平方mの敷地内に約1500本のタカトオコヒガンザクラが植えられ、4月上旬~中旬の満開の時期を迎えると「天下第一の桜」と称された桜を一目見ようと遠方からも多くの観光客が訪れる。
高遠さくらホテル南側の小高い場所に建つお堂。境内には樹齢140年と推定される大きな枝垂れ桜があり、勝間の里に春の訪れを告げる。老桜が3本並び、枝が風に揺らめく様は幻想的だ。遠景もみごと。
江戸時代初期の庄屋で松本藩主も逗留した屋敷。重厚な土塀に300年の歴史を刻む本棟造りで、書院と庭園など家屋の一部が見学できる。庭池は「心」の文字を表わし、天和~貞享年間(1681~1688)の作庭。日本画家、山口蒼輪[やまぐちそうりん]の生家でもある。
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