城山史跡公園 荒砥城跡
戦国時代の山城・荒砥[あらと]城を再現したもの。受付のある四の郭から頂上の本郭まで、連郭式でつくられている。二の郭には櫓[やぐら]・兵舎があり、兵舎内の映像室では荒砥城の歴史をビデオ上映しているほか、展示室では戦国時代の出土品などを展示している。櫓や本郭からは雄大に流れる千曲川と戸倉上山田温泉街、善光寺平までのすばらしい眺めが楽しめる。
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戦国時代の山城・荒砥[あらと]城を再現したもの。受付のある四の郭から頂上の本郭まで、連郭式でつくられている。二の郭には櫓[やぐら]・兵舎があり、兵舎内の映像室では荒砥城の歴史をビデオ上映しているほか、展示室では戦国時代の出土品などを展示している。櫓や本郭からは雄大に流れる千曲川と戸倉上山田温泉街、善光寺平までのすばらしい眺めが楽しめる。
上田城跡の本丸東虎口櫓門の北側、石垣に組み込まれた大石で、柱石として据えたもの。松代に移封される時、真田幸村の兄信之が持ち去ろうとしたが、全く動かなかったという。
山寺常山は、佐久間象山と同時代に活躍した松代三山の一人。松代城下に残る門としては最大の長屋門形式の表門と書院、川の水を引き入れている池(泉水)をたたえた庭園が見事。庭園は国の登録記念物(名勝)に指定されている。
現在の上田高等学校の敷地は、かつての上田藩主屋敷の跡にあたる。この屋敷は、藩政の中心施設である藩庁でもあった。同校東側の表門と、その両脇につづく土塀・濠[ほり]・土塁[どるい]は、昔の面影をよくとどめており、上田市の文化財に指定されている。表門周辺は、春から初夏にかけて、桜やつつじが美しく咲き誇る。
有明山山麓に広がる歴史公園。古墳時代のムラを当時のままに再現した園内には、国の史跡に指定されている森将軍塚[もりしょうぐんづか]古墳や古墳の竪穴式石室などを展示する千曲市森将軍塚古墳館、長野県立歴史館などの史跡や施設がある。
大正8年(1919)に設置され、「松高」の名で親しまれた旧制高等学校。自由闊達な校風で、各界で活躍する多くの人材が巣立った。昭和25年(1950)の学制改革で、旧制高校の制度が廃止になるまで5000名余の人材を輩出。唐木順三・臼井吉見・辻邦生・熊井啓・柚木沙弥郎・古田晁も卒業生。北杜夫の『どくとるマンボウ青春記』には、彼の松高時代が描かれている。本館と講堂は、あがたの森文化会館として市民に利用されており、復元校長室・教室の見学は自由。旧制高等学校記念館が隣接。
ウェストン園地にある、上高地を世界に紹介した英国人宣教師で登山家のウォルター・ウェストンの功績を讚えて日本山岳会が立てた碑。ウェストンは明治24年(1891)上高地を訪問、その後、明神池近くに住む上條嘉門次らの山案内で槍ケ岳、奥穂高岳の登頂を果たした。これはスポーツとしての登山の先駆けとなり、日本近代登山の父といわれる。
弘法山の山麓にあった塩田城は、元弘3年(1333)、塩田北条氏が滅亡した後、村上氏が統治したとされる。現在は、塩田城跡の石碑が静かに立ち、長野県の史跡に指定されている。その付近には約1.5kmにわたってあじさい小道が続き、7月上旬からガクアジサイが咲き誇る。
北アルプスや美ケ原高原の山並みを背景に立つ松本市のシンボル。天守が現存する城として、犬山城、彦根城、姫路城、松江城とともに国宝に指定されている名城。石川数正[かずまさ]、康長[やすなが]父子が文禄2~3年(1593~1594)ころ建てたと推定され、戦闘に有利な山城が多く築かれた戦国時代の中で、松本城は異色の平城。敵の侵入を防ぐ石落や鉄砲狭間などが見どころ。中町通りの北を流れる女鳥羽[めとば]川は、侍町と町人町を分けた川で、堀の役割も果たした。3月下旬~4月上旬は桜に包まれ、5月上旬~中旬には月見櫓前に小笠原ボタンが咲く。
天正11年(1583)に真田昌幸が築城、徳川の大軍を2度撃退した歴戦の名城として知られる。関ケ原の合戦後破却されたが、その後、上田に移封された仙石忠政[せんごくただまさ]によって再建。近世後期には松平氏の居城となった。現在は上田城跡公園として整備され、隅櫓[すみやぐら]と石垣などが往時の面影を伝える。
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