
史跡公園斎王の森
発掘が続く広大な斎宮跡。斎宮が当地にあったことを示すシンボル的な森で、中には「斎王宮阯」の碑があり、日本遺産に認定されている。斎宮跡の発掘調査に基づいて周辺が整備され、公園となっている。
- 「斎宮駅」から徒歩6分/「漕代駅」から徒歩23分
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発掘が続く広大な斎宮跡。斎宮が当地にあったことを示すシンボル的な森で、中には「斎王宮阯」の碑があり、日本遺産に認定されている。斎宮跡の発掘調査に基づいて周辺が整備され、公園となっている。
松坂城は戦国武将、蒲生氏郷によって天正16年(1588)に築かれた。本丸とニノ丸に石垣を築き、かつては3層の天守に敵見、金の間、月見などの櫓が配されていた堅城だった。今はそびえ立つ石垣を残し、公園として整備され、御城番屋敷など松阪市街地が一望できる。桜や藤、イチョウなどが美しく、市民の憩いの場だ。
7世紀後半から8世紀前半にかけて、大来皇女[おおくのひめみこ]が父・天武天皇のために建立した昌福寺[しょうふくじ]の跡と推定されている。跡地に立つ夏見廃寺展示館には、仏画の彫られたせん仏や軒瓦など、数多くの出土品が展示されている。
芭蕉生誕300年を記念し、昭和17年(1942)に上野公園内に建てられた。ユニークな形は芭蕉翁の旅姿を表す。丸い屋根は笠、八角形のひさしは袈裟、柱は行脚する翁の杖、俳聖殿の額は顔をイメージしているという。
時代劇で有名な「伊賀越仇討」の舞台となった所。ことの発端は寛永7年(1630)、備前岡山藩の渡辺源太夫[わたなべげんだゆう]が河合又五郎[かわいまたごろう]に惨殺されたことにある。実弟を殺された渡辺数馬[かずま]は、義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、4年後の11月7日の早朝、死闘ののち、ここで又五郎一行を討ち果たし、見事本懐を遂げる。
天正13年(1585)、筒井定次が築城。慶弔13年(1608)、筒井に代わって伊賀に移封になった築城の名手、藤堂高虎が大改修をし、西側に日本屈指の高さを誇る石垣を築いた。五層の天守閣は竣工直前の慶長17年(1612)、暴風雨のため倒壊した。現在の天守閣は昭和10年(1935)、木造で復興したもので伊賀市指定文化財。内部に藤堂家ゆかりの武具や調度品、著名人の書画など多数の資料を展示。城跡は国の史跡指定を受けている。
芭蕉五庵の一つで、唯一現存する庵で、三重県指定文化財史跡になっている。門弟服部土芳[はっとりどほう]の草庵で、庵開きの祝いに芭蕉が贈った句「みの虫の音を聞に来よ草の庵」にちなんで名付けられた。土芳はここで蕉風俳論「三冊子」を執筆した。
寛永13年(1636)、藤堂高吉[たかよし]が建てた武家屋敷。往時には1083畳の広さを誇ったが、廃藩置県で5分の1に縮小された。現在、書院式枯山水の庭園をはじめ、全国でも珍しい中奥とよばれる当主の私室が残されている。
至徳1年(1384)に伊勢国司北畠顕能[きたばたけあきよし]の家臣、加藤甚左衛門[かとうじんざえもん]が築城。現在は城跡を示す石碑だけが残る。標高100mほどの丘にあり、熊野灘や長島の町並みが一望できる。
文政4年(1821)、津の藩校、有造館[ゆうぞうかん]の支校として第10代藩主藤堂高兌[とうどうたかさわ]が建築。講堂、御成門、表門、有恒寮[ゆうこうりょう]、小玄関、台所棟などが残されている。なかでも72畳の広さを誇る講堂は圧巻だ。
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