
愛洲の里
南北朝から戦国時代にかけて栄えた豪族、愛洲一族の居城だった五ケ所城跡周辺を整備した里公園。剣祖愛洲移香斎[あいすいこうさい]に関する資料や町の伝統芸能などを紹介した愛洲の館、五ケ所城跡、古井戸、牛鬼の像などがある。
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南北朝から戦国時代にかけて栄えた豪族、愛洲一族の居城だった五ケ所城跡周辺を整備した里公園。剣祖愛洲移香斎[あいすいこうさい]に関する資料や町の伝統芸能などを紹介した愛洲の館、五ケ所城跡、古井戸、牛鬼の像などがある。
川口町にある七里の渡に面して建てられた河口のまち桑名を象徴する蟠龍櫓。かつては東海道を行き交う人々が必ず目にした桑名のシンボルを忠実に復元。かの有名な歌川広重の浮世絵『東海道五十三次』でも、海上の名城と謳われた桑名を表すためにこの櫓を象徴的に描いている。「蟠龍」とは、天に昇る前のうずくまった状態の龍のこと。龍は水を司る聖獣として中国では寺院や廟などの装飾モチーフとしても広く用いられている。蟠龍櫓についても、航海の守護神としてここに据えられたものと考えられている。
九鬼嘉隆が文禄3年(1594)に築城した鳥羽城は、九鬼水軍の本拠地でもあった。往時は総面積が10万平方m以上もあったとされている。大手門が海側に突出した珍しい造りで、この門が海への出入口になっていた。当時の面影を思わせるものは、石垣の一部のみとなったが、現在は「海の見える公園」として整備されている。
天照大御神の鎮座する地を探し歩いていた倭姫命が、ここで鎧を脱いだという神話に由来する鎧埼。沖合は伊勢湾でも三大難所の一つに数えられるところであったため、この鎧埼灯台が早くから設けられた。灯台には入れないが、付近からの眺めは絶景で、岩礁に激しく波がぶつかり合うさまは壮観だ。
国道260号沿いに立つ町のシンボルキャラクター。ビン玉の電飾で飾られた愛らしいその姿の前で記念撮影する人も多い。ビン玉は夕方から点灯する。
桑名宿は東海道五十三次の42番目の宿場。桑名藩の城下町でもあり、江戸後期には本陣2軒、脇本陣4軒、旅籠120軒が立ち並ぶ大きな宿場だった。熱田神宮のある熱田宿とは伊勢湾の海路・七里の渡しで結ばれ、桑名の渡船場は伊勢神宮への入口としても賑わった。現在、七里の渡跡には伊勢神宮一の鳥居と常夜灯が立ち、近くには復元された航海の守護神を祭る蟠龍櫓や、旅館として営業している大塚本陣跡、脇本陣跡などが残る。七里の渡跡から桑名城跡(九華公園)の外堀沿いや街中を通る東海道を散策すれば、「歴史を語る公園」や道標、矢田立場などに往時の宿場町の面影が感じられる。
揖斐川河口、東海道の渡場跡。かつては熱田までの七里(約28km)の間を舟で結んでいた。現在も伊勢国の東の玄関口として「伊勢国一の鳥居」がたっている。
創業は宝暦6年(1756)の問屋で、今も現役の蔵は築200年以上前のもの。旅人の世話をする伊勢神宮の御師の家であったため、江戸時代の旅の案内本や錦絵、陶器などが残る。伊勢まちかど博物館として公開。手押しトロッコは、64mのトロッコレールが倉庫へ続く。
神宮参拝の皇族や各界要人の宿泊・休憩所として明治20年(1887)に建設された。豪華なシャンデリアを備えた120畳の大広間、輪島塗二重格天井が施された御殿の間など、贅を凝らした装飾や匠の技が随所に見られる。国の重要文化財。
かどやは江戸期に大庄屋もつとめた廣野家の旧宅。主屋は文政8年(1825)に建てられたもので、修理後に平成25年(2013)5月1日から観光客と市民の交流センターとして開館。廣野家が薬屋を営んでいた時の資料を公開している。
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