伊勢国分寺跡
聖武天皇の命を受け、行基が天平13年(741)に開いた国分寺、国分尼寺があった場所。国の史跡に指定されている。かつて南大門などが立っていたが、戦国の騒乱でほとんど焼失。現在は講堂の礎石の一部が残るのみ。隣接の鈴鹿市考古博物館で歴史的背景を理解し、ここを眺めると感慨ひとしおだ。
- 「河曲駅」から徒歩23分
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聖武天皇の命を受け、行基が天平13年(741)に開いた国分寺、国分尼寺があった場所。国の史跡に指定されている。かつて南大門などが立っていたが、戦国の騒乱でほとんど焼失。現在は講堂の礎石の一部が残るのみ。隣接の鈴鹿市考古博物館で歴史的背景を理解し、ここを眺めると感慨ひとしおだ。
日本初の本格的な五十音順国語辞典『和訓栞』[わくんのしおり]を著した谷川士清の生家。「つし2階建て」の質素な邸宅は、安永4年(1775)に建築または改装されたと推測されている。国の史跡指定を受けている。
伊勢本街道は飛鳥時代から大和と伊勢を結ぶ重要な道であった。後江戸時代には宿場町や伝馬所などが除々に整備され、奈良・榛原を経て伊勢に至る最短コースであったことから多くの旅人などが往来したが、険しい山道も多く旅人にも恐れられていた。このように街道沿いは当時の面影偲ぶ家並み、道標などが残っている。日本の街道百選、日本の峠百選などに認定されるなど素晴らしい景観が広がっている。
関宿のお隣・亀山宿は、亀山城のお膝元で、城下町として繁栄した。関宿ほど往時を偲ばせる町並みは残されていないが、武家屋敷跡などで面影にふれることができる。
かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門[からめてもん]を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの西棟一番手前(松阪城より)一戸が内部を一般公開している。
亀山城の外堀にあたる池の近くには昭和7年(1932)に亀山保勝会が建立した石碑が立つ。これは元禄14年(1701)5月9日に石井源蔵・半蔵兄弟が父の仇、赤堀水之助を討ち取ったことを記念する碑。当時、元禄曽我とよばれ、翌年の赤穂浪士の討ち入りと並び称された。
記紀では、日本武尊が東征の帰途、亀山で終焉を迎え、魂は白鳥と化して大和へ向かったとされている。市内北東部にあるこの墓は、ミコトの墳墓の地と伝えられ、神社や公園がある。
平成8年(1996)に日本最古の土偶が発見されて話題となった縄文時代草創期の遺跡。現在、竪穴住居などが復元され、高架下が史跡公園として公開されている。
南北朝時代に設立された、岡田文庫を前身とする内宮の学舎。貞享3年(1686)に再興され、元禄3年(1690)に現在地へ移転。書庫・講堂・塾舎などがあり、神宮に参拝した学者たちが講義をしたり、著書を献納してきた。昭和29年(1954)に史跡に指定。所蔵図書は現在、神宮文庫に移されている。4月と9月の特定期間のみ一般公開。
伊勢上野城は、標高40mの台地の上に造られた平山城で、織田信長の弟である信包[のぶかね]が永禄12年(1569)に津城の仮城としてここに居城を定め、天守台、本丸等を整備したものと考えられている。また、お市と茶々、初、江の浅井三姉妹が暮らしていたと言われている。現在は、本城山青少年公園として芝生広場やアスレチックも整備され、4月には花見、天守台跡の展望台や東屋からは伊勢湾が一望でき、家族連れで楽しめる。
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