鈴屋
江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅で、国の特別史跡に指定されている。宣長が2階の物置を改造して4畳半の簡素な書斎を造ったのは53歳の時。鈴屋の命名は宣長自身で、研究に疲れると柱掛の鈴を振って音色を楽しんだという。
- 「松阪駅」から徒歩15分
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江戸時代の国学者・本居宣長の旧宅で、国の特別史跡に指定されている。宣長が2階の物置を改造して4畳半の簡素な書斎を造ったのは53歳の時。鈴屋の命名は宣長自身で、研究に疲れると柱掛の鈴を振って音色を楽しんだという。
芭蕉生誕300年を記念し、昭和17年(1942)に上野公園内に建てられた。ユニークな形は芭蕉翁の旅姿を表す。丸い屋根は笠、八角形のひさしは袈裟、柱は行脚する翁の杖、俳聖殿の額は顔をイメージしているという。
伊勢上野城は、標高40mの台地の上に造られた平山城で、織田信長の弟である信包[のぶかね]が永禄12年(1569)に津城の仮城としてここに居城を定め、天守台、本丸等を整備したものと考えられている。また、お市と茶々、初、江の浅井三姉妹が暮らしていたと言われている。現在は、本城山青少年公園として芝生広場やアスレチックも整備され、4月には花見、天守台跡の展望台や東屋からは伊勢湾が一望でき、家族連れで楽しめる。
日本初の本格的な五十音順国語辞典『和訓栞』[わくんのしおり]を著した谷川士清の生家。「つし2階建て」の質素な邸宅は、安永4年(1775)に建築または改装されたと推測されている。国の史跡指定を受けている。
7世紀後半から8世紀前半にかけて、大来皇女[おおくのひめみこ]が父・天武天皇のために建立した昌福寺[しょうふくじ]の跡と推定されている。跡地に立つ夏見廃寺展示館には、仏画の彫られたせん仏や軒瓦など、数多くの出土品が展示されている。
時代劇で有名な「伊賀越仇討」の舞台となった所。ことの発端は寛永7年(1630)、備前岡山藩の渡辺源太夫[わたなべげんだゆう]が河合又五郎[かわいまたごろう]に惨殺されたことにある。実弟を殺された渡辺数馬[かずま]は、義兄の荒木又右衛門の助太刀を得て、4年後の11月7日の早朝、死闘ののち、ここで又五郎一行を討ち果たし、見事本懐を遂げる。
至徳1年(1384)に伊勢国司北畠顕能[きたばたけあきよし]の家臣、加藤甚左衛門[かとうじんざえもん]が築城。現在は城跡を示す石碑だけが残る。標高100mほどの丘にあり、熊野灘や長島の町並みが一望できる。
天正18年(1590)に岡本良勝が築いた城。かつては5つの曲輪があり、櫓や門が立ち並んでいた。現在は石垣の上に多門櫓を残すのみだが、美しい石垣に往時の姿が偲ばれる。多門櫓は約1年半に及ぶ「平成の大修理」を経て、江戸時代後半の姿に復元された。また三重県内で唯一残る江戸時代の城郭建造物として、三重県史跡及び三重県有形文化財建造物に指定されている。
かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門[からめてもん]を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの西棟一番手前(松阪城より)一戸が内部を一般公開している。
亀山城の外堀にあたる池の近くには昭和7年(1932)に亀山保勝会が建立した石碑が立つ。これは元禄14年(1701)5月9日に石井源蔵・半蔵兄弟が父の仇、赤堀水之助を討ち取ったことを記念する碑。当時、元禄曽我とよばれ、翌年の赤穂浪士の討ち入りと並び称された。
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