
御城番屋敷
かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門[からめてもん]を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの西棟一番手前(松阪城より)一戸が内部を一般公開している。
- 「松阪駅」から徒歩14分
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かつて松阪城の警護を任された紀州藩士20人の屋敷で、城の裏門と搦手門[からめてもん]を結ぶ石畳の両側に並ぶ。長屋建ての母屋2棟(重要文化財)と前庭、畑地、土蔵などが槙垣に囲まれた姿は往時そのまま。今も藩士の子孫が住むが、そのうちの西棟一番手前(松阪城より)一戸が内部を一般公開している。
天正18年(1590)に岡本良勝が築いた城。かつては5つの曲輪があり、櫓や門が立ち並んでいた。現在は石垣の上に多門櫓を残すのみだが、美しい石垣に往時の姿が偲ばれる。多門櫓は約1年半に及ぶ「平成の大修理」を経て、江戸時代後半の姿に復元された。また三重県内で唯一残る江戸時代の城郭建造物として、三重県史跡及び三重県有形文化財建造物に指定されている。
石川氏六万石の家老職にあった加藤家の長屋門と土蔵。建物は、平成2年(1990)の修復工事で幕末当時の姿に復元された。土蔵のなまこ壁や長屋門の白壁に城下町の面影が残っている。
平成8年(1996)に日本最古の土偶が発見されて話題となった縄文時代草創期の遺跡。現在、竪穴住居などが復元され、高架下が史跡公園として公開されている。
母の病を治そうと禁漁区の阿漕浦[あこぎうら]で漁をし、処刑された親孝行息子の平治。その霊を慰めるために築かれた塚。
記紀では、日本武尊が東征の帰途、亀山で終焉を迎え、魂は白鳥と化して大和へ向かったとされている。市内北東部にあるこの墓は、ミコトの墳墓の地と伝えられ、神社や公園がある。
真宗高田派本山専修寺を中心に発展した一身田寺内町。壕や堀などで防御された自治都市で、現在もほぼ完全な形で環濠が残る。館内では、一身田寺内町における地域固有の歴史・文化を復元模型や資料で紹介。
東海道47番目の宿場町で交通の要衝として栄えた関宿。国の重要伝統的建造物群保存地区にも選定された1.8kmの町並みは、宿場町の旧態をとどめている。
亀山城の外堀にあたる池の近くには昭和7年(1932)に亀山保勝会が建立した石碑が立つ。これは元禄14年(1701)5月9日に石井源蔵・半蔵兄弟が父の仇、赤堀水之助を討ち取ったことを記念する碑。当時、元禄曽我とよばれ、翌年の赤穂浪士の討ち入りと並び称された。
天正8年(1580)に織田信長の弟・信包[のぶかね]によって築かれた津城は藤堂高虎の入城によって大改修が行われ、明治維新まで藤堂氏の居城となった。現在は堀や櫓などが残り、庭園も造られている。平成29年(2017)4月には、公益社団法人日本城郭協会による「続日本100名城」にも選定された。
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