
鼻かけえびす
町の中央にある小高い丘は「恵比寿丘」と呼ばれ、豊漁と海上安全、商売繁昌を祈願して大きな恵比寿像が建てられている。この像は名のとおり、いつも鼻が欠けている。これはハナ(端を取る)=先を制すにかけて、地元の人が持っていってしまうから。毎年新しい鼻が付けられる1月20日の初えびすの日には、地元の人に観光客も参加し、初笑い神事が開催される。
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町の中央にある小高い丘は「恵比寿丘」と呼ばれ、豊漁と海上安全、商売繁昌を祈願して大きな恵比寿像が建てられている。この像は名のとおり、いつも鼻が欠けている。これはハナ(端を取る)=先を制すにかけて、地元の人が持っていってしまうから。毎年新しい鼻が付けられる1月20日の初えびすの日には、地元の人に観光客も参加し、初笑い神事が開催される。
南北朝時代に設立された、岡田文庫を前身とする内宮の学舎。貞享3年(1686)に再興され、元禄3年(1690)に現在地へ移転。書庫・講堂・塾舎などがあり、神宮に参拝した学者たちが講義をしたり、著書を献納してきた。昭和29年(1954)に史跡に指定。所蔵図書は現在、神宮文庫に移されている。4月と9月の特定期間のみ一般公開。
パールロードの途中、標高162mの箱田山山頂にある展望台。ここからの海の風景は雄大で、知多半島からぐるりと大王崎まで見渡せ、天候の条件が合えば富士山も見える。山口誓子の石碑、地元出身の兄弟歌手、鳥羽一郎と山川豊の歌碑も立っている。カフェ、ショップが入る「海女のテラス」もある。ドライブ途中の休憩に立ち寄りたいスポットだ。
明治6年(1873)に、イギリス人技師ブライトンの指導で建てられた日本最古の総レンガ造りの洋式灯台。灯台内の見学はできないが、現在も海上の安全を守り続けている。日本の灯台50選にも選ばれている。
明治43年(1910)に建てられた純白の灯台で、今も伊良湖水道の安全を守り続けている。内部の見学はできないが、渥美半島・篠島・佐久島・日間賀島に加え、はるか知多半島まで見渡すことができる。
御幸道路に面して立つ黒瓦の門は、かつて神宮の御師として活躍した、福島みさき大夫の邸の門だったもの。現在は神宮文庫の玄関門となっている。安永9年(1780)の梁銘があり、高さ7.4mの棟上には大きな鴟尾[しび]が掲げられている。
戦国時代に水軍の将として活躍した九鬼嘉隆は、関ケ原の合戦に敗れて答志島に逃走し、自刃する。「鳥羽城の見える地に」との遺言に従い、首は岬の頂上に、胴は麓に葬られた。首塚の石碑、胴塚の五輪の塔は、三重県の文化財に指定されている。
山林王と呼ばれた桑名の実業家、二代諸戸清六の新居として、大正2年(1913)に建てられた邸宅を公開。鹿鳴館を設計したイギリス人、ジョサイア・コンドル設計の洋館と、それに連なる和館は国の重要文化財で、その前に広がる池泉回遊式庭園も国の名勝指定を受けている。
南北朝動乱期の延元元年(1336)、南朝側の北畠親房が足利氏との戦いのために築いたのが始まり。以来、伊勢国の軍事拠点として中世まで貴重な役割を果たし、江戸時代には周辺に城下町が発展していった。しかし、明治2年(1869)、版籍奉還に先立って紀州藩に返上を命ぜられ、廃城となった。現在は移築された富士見門のほか、本丸、北の丸、二の丸のあった石垣が残り、往時の様子を伝えている。
医者であり詩人であった伊良子清白。北原白秋や西条八十とも交流がり、この家を訪れている。その居宅兼診療所が平成21年(2009)、マリンパークに移築された。建物には診察室のほか、居間や客間などが残る。
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