賓日館
神宮参拝の皇族や各界要人の宿泊・休憩所として明治20年(1887)に建設された。豪華なシャンデリアを備えた120畳の大広間、輪島塗二重格天井が施された御殿の間など、贅を凝らした装飾や匠の技が随所に見られる。国の重要文化財。
- 「二見浦駅」から徒歩14分
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神宮参拝の皇族や各界要人の宿泊・休憩所として明治20年(1887)に建設された。豪華なシャンデリアを備えた120畳の大広間、輪島塗二重格天井が施された御殿の間など、贅を凝らした装飾や匠の技が随所に見られる。国の重要文化財。
南北朝時代に設立された、岡田文庫を前身とする内宮の学舎。貞享3年(1686)に再興され、元禄3年(1690)に現在地へ移転。書庫・講堂・塾舎などがあり、神宮に参拝した学者たちが講義をしたり、著書を献納してきた。昭和29年(1954)に史跡に指定。所蔵図書は現在、神宮文庫に移されている。4月と9月の特定期間のみ一般公開。
御幸道路に面して立つ黒瓦の門は、かつて神宮の御師として活躍した、福島みさき大夫の邸の門だったもの。現在は神宮文庫の玄関門となっている。安永9年(1780)の梁銘があり、高さ7.4mの棟上には大きな鴟尾[しび]が掲げられている。
南北朝動乱期の延元元年(1336)、南朝側の北畠親房が足利氏との戦いのために築いたのが始まり。以来、伊勢国の軍事拠点として中世まで貴重な役割を果たし、江戸時代には周辺に城下町が発展していった。しかし、明治2年(1869)、版籍奉還に先立って紀州藩に返上を命ぜられ、廃城となった。現在は移築された富士見門のほか、本丸、北の丸、二の丸のあった石垣が残り、往時の様子を伝えている。
創業は宝暦6年(1756)の問屋で、今も現役の蔵は築200年以上前のもの。旅人の世話をする伊勢神宮の御師の家であったため、江戸時代の旅の案内本や錦絵、陶器などが残る。伊勢まちかど博物館として公開。
天照大御神の鎮座する地を探し歩いていた倭姫命が、ここで鎧を脱いだという神話に由来する鎧埼。沖合は伊勢湾でも三大難所の一つに数えられるところであったため、この鎧埼灯台が早くから設けられた。灯台には入れないが、付近からの眺めは絶景で、岩礁に激しく波がぶつかり合うさまは壮観だ。
パールロードの途中、標高162mの箱田山山頂にある展望台。ここからの海の風景は雄大で、知多半島からぐるりと大王崎まで見渡せ、条件があれば富士山も見える。山口誓子の石碑、地元出身の兄弟歌手、鳥羽一郎と山川豊の歌碑も立っている。海鮮カフェ、ショップが入る「食国蔵王」[おすくにくらおう]もある。ドライブ途中の休憩に立ち寄りたいスポットだ。
旧日本陸軍が、砲弾の着弾地点を観測するために建てられた建物。三島由紀夫の小説『潮騒』では新治が炎を飛び越えて初江を抱擁するクライマックスシーンの舞台となった。
戦国時代に水軍の将として活躍した九鬼嘉隆は、関ケ原の合戦に敗れて答志島に逃走し、自刃する。「鳥羽城の見える地に」との遺言に従い、首は岬の頂上に、胴は麓に葬られた。首塚の石碑、胴塚の五輪の塔は、三重県の文化財に指定されている。
明治43年(1910)に建てられた純白の灯台で、今も伊良湖水道の安全を守り続けている。内部の見学はできないが、渥美半島・篠島・佐久島・日間賀島に加え、はるか知多半島まで見渡すことができる。
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