輪王寺 三仏堂
日光山の本堂(重要文化財)にあたり、重層入母屋造、銅瓦葺、間口33.8m、奥行21.2m、伽藍全体に朱塗りを配した東日本最大の木造建造物。嘉祥元年(848)、慈覚大師により創建。元和3年(1617)、東照宮創建の際、二荒山神社の境内に移される。その後明治の神仏分離令により現在の地に移された。堂内には、日光三社権現の本地仏である千手観世音菩薩、阿弥陀如来、馬頭観世音菩薩の三仏が祀られている。
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日光山の本堂(重要文化財)にあたり、重層入母屋造、銅瓦葺、間口33.8m、奥行21.2m、伽藍全体に朱塗りを配した東日本最大の木造建造物。嘉祥元年(848)、慈覚大師により創建。元和3年(1617)、東照宮創建の際、二荒山神社の境内に移される。その後明治の神仏分離令により現在の地に移された。堂内には、日光三社権現の本地仏である千手観世音菩薩、阿弥陀如来、馬頭観世音菩薩の三仏が祀られている。
約1600年前に創建された由緒ある神社で豊城入彦命[とよきいりひこのみこと]を祭る。社宝に国指定重要美術品の三十八間星兜[さんじゅうはっけんほしかぶと]と鉄製狛犬がある。また、餃子の町宇都宮にちなんだ「餃子みくじ」なども頒布している。
輪王寺所管の堂塔は神仏習合の地である山内一円に散在している。平安時代に朝廷から一山の総号として満願寺[まんがんじ]の名を賜り、後に、円仁[えんにん]の来山により天台宗となった。鎌倉時代には皇族座主が始まり、以後も日光三所権現信仰の中心として栄えた。比叡山延暦寺[ひえいざんえんりゃくじ]、東叡山寛永寺[かんえいじ]と並び、天台宗三本山の一つに数えられ、大般涅槃経集解59巻は国宝。明治時代の神仏分離令によって、一時は満願寺に復称となったが、明治16年(1883)に寺号復活し、今日の輪王寺になった。
東照宮境内、坂下門をくぐり、杉の老木が茂る荘厳な雰囲気の中、207段の急な石段を上ると、鳥居が見える。ここからが奥社で、黒漆塗りの拝殿の後ろに、徳川家康が眠る高さ5mの金、銀、銅を合金した唐銅製の宝塔が安置されている。
東照宮の本殿・拝殿の正門にあたり、門柱には唐木の寄せ木細工で造られた昇龍と降龍が飾られている。屋根の前後は「つつが」(唐獅子の説も)、左右には鰭[ひれ]切れの龍を置き、欄間には中国の故事にちなんだ彫刻があり見事だ。
東照宮入口に立つ一ノ鳥居をくぐったすぐ左手に立つ、高さ約36mの朱塗りの塔。慶安3年(1650)、酒井忠勝公から奉納されたが、落雷により焼失。文政元年(1818)、再び酒井家の手によって再建され現在の姿となった。各屋根の二重垂木は4層までがまっすぐな和様、5層目のみ扇形に広がる唐様になっている。初層に施された十二支の彫刻は必見。
輪王寺大猷院の正門。高さ3m20cmの密迹金剛[みっしゃくこんごう]と那羅延金剛[ならえんこんごう]の2体の仁王像が左右に安置され、門を守っている。
宇都宮市の郊外、鬼怒川の近くにある鎌倉時代末期創建の臨済宗の古刹。かつては七堂伽藍を備えた広大な寺領を誇った寺院で、現在は、本堂や訶利帝母[かりていぼ](鬼子母神)座像を安置する訶利帝母堂のほか、境内に約200本ほどの梅の木があり、梅の名所としても知られている。墓地には寺院西方の飛山城を築いた芳賀氏(清原氏)の累代の墓碑があり、飛山城の支城としての役割から空堀や土塁を備え、その一部が残っている。
東照宮境内の神楽殿の向かい側、廻廊に沿って立つ。かつては護摩堂とよばれ、神仏分離令以前は日光門主の輪王寺宮が天下泰平祈願の護摩修法を行っていたが、現在は祈祷や神前結婚式を行う場所となっている。
東西南北を守護する4体の夜叉を祀り、東照宮でいえば陽明門にあたるのが輪王寺大猷院の夜叉門。屋根も陽明門と同じ軒唐破風[のきからはふ]の切妻造になっている。毘陀羅[びだら]、阿跋摩羅[あばつまら]、鍵陀羅[けんだら]、烏摩勒伽[うまろきゃ]といった武器を携えた色彩やかな夜叉が門を守っているところから、夜叉門とよばれる。別名・牡丹門ともよばれるのはボタンの花が多く装飾されているところから。全体に黒赤と金を基調に、荘厳な雰囲気が漂う。
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