岩崎彌太郎銅像
いかにも彌太郎らしい堂々とした姿の銅像。昭和59年(1984)、彌太郎の生誕150年を記念して募金活動を展開。目標額の3000万円をわずか1年で集めて建立された。
- 「あき総合病院前駅」から徒歩19分/「安芸駅」から徒歩23分
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いかにも彌太郎らしい堂々とした姿の銅像。昭和59年(1984)、彌太郎の生誕150年を記念して募金活動を展開。目標額の3000万円をわずか1年で集めて建立された。
屋島の檀ノ浦の戦いで、天皇の身代わりを立て安徳天皇が落ち延びて来たのち、無念の死を遂げたという伝承の横倉山中にある。第3駐車場から徒歩約40分のところにあるとても立派なもので、すぐ近くには4億年前の石灰岩から成る断崖の「馬鹿だめし」と、その上に建つ安徳天皇を祭神とする「横倉宮」などのみどころあり。
高床平屋建ての建築物で、幕末から大正にかけて幡多に点在した泊り屋の1つ。地域の警備や行事などのために若者が寝泊りした。国の重要有形民俗文化財に指定。外観の見学のみで内部は見学できない。
安芸城は鎌倉時代に築城。戦国時代に建物は焼け落ちたが、残った井戸や土塁、濠、石組みなどが往時を伝える。
明治6年(1873)に建築された「鍋蓋上廻し式」の舞台。この様式では日本唯一で、国の重要有形民俗文化財。4年毎の秋に高野地区住民によって「高野農村歌舞伎」が上演される。
安芸城主五藤氏の家臣たちが集まり住んだ武家屋敷の町並み。ウバメガシの生け垣、土用竹の垣根や塀に囲まれた武家屋敷は、今も住み継がれている。平成24年(2012)7月には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された。屋敷群の中ほどにある野村家(料金:見学無料、時間:9~17時、入場は~16時30分、休み:無休)のみ内部見学ができる。
梼原の志士たちの脱藩を陰で支えた、財力豊かな神官・掛橋和泉の旧邸を移築。屋敷は同志たちの議論や密会の場になったという。
明治時代、まるいち土佐紙株式会社が商談などに使用していた接待施設。茶室を思わせる建物は幕末から明治初期のもの。庭にある8基の碑はいの町の紙業界の功労者を顕彰したものだ。
明治20年(1887)、この地の地主だった畠中源馬[はたけなかげんま]が自宅の屋根に作った櫓[やぐら]時計で、安芸のシンボル。時計に興味をもった源馬は、独学で原理を学び、分銅[ふんどう]や歯車もすべて自作した。内部は見学できない。
龍馬暗殺後、妻のお龍は一時、妹が嫁いだ芸西村で暮らした。その銅像は、形見のピストルで小鳥を撃って遊んだという浜(琴ケ浜)に立つ。
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