
不破関跡
不破関は壬申の乱の翌年(673年)、天武天皇が設けた関で、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関とともに、日本三関とよばれた。美濃国司が勤務、兵士が常駐し、国家の非常時に備えていたもので、発掘調査の結果、一辺400mの土塁の中に東山道を取り込み、約100m四方の内郭には、瓦葺きの建物が数多く建っていたと言われている。
- 「関ケ原駅」から徒歩22分
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不破関は壬申の乱の翌年(673年)、天武天皇が設けた関で、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関とともに、日本三関とよばれた。美濃国司が勤務、兵士が常駐し、国家の非常時に備えていたもので、発掘調査の結果、一辺400mの土塁の中に東山道を取り込み、約100m四方の内郭には、瓦葺きの建物が数多く建っていたと言われている。
大名や幕府役人の宿として利用された旧脇本陣。明和6年(1769)に建設された居室部と、やや遅れて建てられた座敷部からなり、国の重要文化財にも指定されている。切妻屋根の両端には立派なうだつが上がり、この家の当時の権威や格式の高さが伺い知れる。現在、主家に隣接する隠居家は一般公開され、江戸時代の町家の雰囲気や貴重な遺構を見学できる。
高山市新宮町から移築した江戸後期の郷倉。各郷ごとに備蓄米・年貢米を貯蔵した倉庫だ。
明治37年(1904)、豪雨で山崩れが起こり一家4人が犠牲になったことを悼んで立てられた鎮魂碑。下方には、島崎藤村の筆による「山家にありて水にうもれたる蜂谷の家族四人之記念に島崎藤村しるす」の一文が刻まれている。現在は水車小屋が復元され、周辺は休憩の場となっている。
日下部民藝館の北隣にある吉島家は、両替商と造り酒屋として手広く事業を行ってきた豪商。軒下には杉玉が下がり、酒造業時代の名残りをとどめている。現在の建物は明治40年(1907)に名棟梁西田伊三郎によって再建されたもので、国の重要文化財に指定されている。飛騨地方の町屋建築の様式を明確に保ち、完成された美しさで知られる。見どころは玄関を入った土間の吹き抜け空間。大黒柱を中心に、梁と束で幾何学的に組まれた空間を造りあげ、高窓から差し込む光が美しいシルエットを描く。所要30分。井戸端ギャラリーは篠田桃紅展常設。
戦国時代、斎藤道三公の居城だった稲葉山城が、織田信長公によって岐阜城と名を変えたのは永禄10年(1567)。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城。金華山に現在立つ岐阜城は、昭和31年(1956)に再建されたもの。三層四階構造で、最上階は展望台になっている。平成27年(2015)に日本遺産第1号として認定され、「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜の構成文化財に位置づけられている。
天文4年(1535)に創建されたと伝わる。関ケ原合戦では西軍の本拠地となった。4層4階建て総塗りごめ様式の優美な天守からは岐阜城や伊吹山などが見渡せる。
木下藤吉郎(後の豊臣秀吉)が、美濃侵攻にあたって信長の命令により一夜にして築いたと伝わる墨俣城。現在は当時の砦ではなく、城郭天守の体制を整えた歴史資料館となっている。館内の展示は墨俣築城と秀吉の歩んだ道を中心に紹介している。
昭和11年(1936)建築。平成6年(1994)まで利用されていた、八幡町役場(国登録有形文化財)の建物を改装。レトロな洋風建築の内部には、観光アドバイスをしてくれるインフォメーションや無料休憩サロンやけいちゃん定食、明方ハムステーキ定食など、地元食材を使った料理が楽しめる食事処と特産品販売コーナーもある。
馬籠宿の坂道を上りきった、中山道への入り口付近に立っている。江戸時代にはこの場所で幕府から庶民にふれ回す高札が掲げられていた。現在は、正徳年間(1711~16)に発布された御朱印[ごしゅいん]、切支丹[きりしたん]、薬品などに関する定書と、明和7年~寛政6年(1770~1794)に発布された徒党禁止の定書が復元され、掲示されている。
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