
岐阜城
戦国時代、斎藤道三公の居城だった稲葉山城が、織田信長公によって岐阜城と名を変えたのは永禄10年(1567)。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城。金華山に現在立つ岐阜城は、昭和31年(1956)に再建されたもの。三層四階構造で、最上階は展望台になっている。平成27年(2015)に日本遺産第1号として認定され、「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜の構成文化財に位置づけられている。
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戦国時代、斎藤道三公の居城だった稲葉山城が、織田信長公によって岐阜城と名を変えたのは永禄10年(1567)。その後、関ケ原の合戦の前哨戦で落城。金華山に現在立つ岐阜城は、昭和31年(1956)に再建されたもの。三層四階構造で、最上階は展望台になっている。平成27年(2015)に日本遺産第1号として認定され、「信長公のおもてなし」が息づく戦国城下町・岐阜の構成文化財に位置づけられている。
平成21年(2009)、岐阜市制120周年を記念してJR岐阜駅前広場に登場。信長は「井口」と呼ばれていた当地を「岐阜」と改名し、天正4年(1576)まで約10年間岐阜を本拠地に「天下布武」を目指して戦いを続け勢力を拡大する一方、「楽市楽座令」など先進的な政策や制度でまちを発展させた。高さ約8mの台座にある約3mの黄金の織田信長公像は、市民の寄付で作られ表面は金箔3層張り。火縄銃と西洋兜を手に、マントを羽織った凛々しい姿が眩しい。
関ケ原合戦の際、石田三成が陣を布いたのが笹尾山。5分ほどで登ることができる山頂からは、関ケ原が一望できる。
松尾芭蕉が『奥の細道』の旅を終えた地で、この地で詠まれた句「蛤のふたみにわかれ行秋ぞ」を刻んだ蛤塚が建てられている。かつて大垣と桑名を結ぶ水運の拠点として栄えた船町港の跡地でもあり、水門川に浮かぶ舟と住吉燈台が往時を偲ばせてくれる。近くには「奥の細道むすびの地記念館」もあり、芭蕉と大垣の深い関わりを知ることができる。
戦国の智将、竹中半兵衛ゆかりの地。豊臣秀吉の軍師として名高い竹中半兵衛の嫡子で、関ケ原合戦にも参戦した重門が築いた陣屋跡。白壁の正門と石垣、堀の一部が残っている。
関ケ原駅から北西へ延びる街道沿いがかつての主戦場。向かって前方左手が石田方西軍の笹尾山、後方右手が徳川方東軍の桃配山[ももくばりやま]。戦死者を葬った首塚、各武将の陣跡なども点在する。
不破関は壬申の乱の翌年(673年)、天武天皇が設けた関で、伊勢の鈴鹿関、越前の愛発関とともに、日本三関とよばれた。美濃国司が勤務、兵士が常駐し、国家の非常時に備えていたもので、発掘調査の結果、一辺400mの土塁の中に東山道を取り込み、約100m四方の内郭には、瓦葺きの建物が数多く建っていたと言われている。
かつては船宿が立ち並び、多くの物資や人が桑名と大垣を往来した水門川の港跡。俳人・松尾芭蕉が奥の細道の旅を終えたむすびの地としても知られ、「蛤のふたみに別行秋ぞ」と詠み、ここから桑名へ下ったとされる。現在も当時の面影が静かに残る。松尾芭蕉が紀行文学『奥の細道』で表現した景観美を継承しつつ、往時の遺風を伝える場所として、その鑑賞上の価値が高いことから「おくのほそ道の風景地大垣船町川湊」として平成26年(2014)に国の名勝に指定された。
江戸時代に旅籠を営んでいた建物を用いた無料休憩所。中には畳の広間があり、靴を脱いでひと休みできる。文豪・坪内逍遥や岡本太郎の父で漫画家の岡本一平など、当地ゆかりの人物を紹介するパネル展示もあり。
天文4年(1535)に創建されたと伝わる。関ケ原合戦では西軍の本拠地となった。4層4階建て総塗りごめ様式の優美な天守からは岐阜城や伊吹山などが見渡せる。
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