
中津川宿
中山道を江戸板橋宿から数えて45番目の宿場町として栄えた中津川宿は、旅籠だけでも大小29軒を数える大きな宿場だった。現在、本町にある本陣跡地には、石碑が残されている。周辺には古い家屋も立ち並び、卯建[うだつ]のある家なども見ることができる。
- 「中津川駅」から徒歩12分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
中山道を江戸板橋宿から数えて45番目の宿場町として栄えた中津川宿は、旅籠だけでも大小29軒を数える大きな宿場だった。現在、本町にある本陣跡地には、石碑が残されている。周辺には古い家屋も立ち並び、卯建[うだつ]のある家なども見ることができる。
昭和11年(1936)建築。平成6年(1994)まで利用されていた、八幡町役場(国登録有形文化財)の建物を改装。レトロな洋風建築の内部には、観光アドバイスをしてくれるインフォメーションや無料休憩サロンやけいちゃん定食、明方ハムステーキ定食など、地元食材を使った料理が楽しめる食事処と特産品販売コーナーもある。
明治8年(1875)の大火後に建てられた建物で、間口6.4m程度のごく標準的な商家。奥行きは22m程度あり、母屋・中庭・土蔵と並んでいる。大新町周辺は越中街道沿いに開けた商人町であったこともあり、伝統的様式の町家が残っているが、なかでも宮地家は改造を加えていないとても貴重なもの。屋号を「宮地屋」といい、かつては農業と商業を営んでいた。
江戸幕府の代官所・郡代役所の遺構。飛騨国が幕府直轄領だった176年の間、25代の代官・郡代がここで執務を行った。門番所付きの重厚な表門は天保3年(1832)の改築。玄関之間・大広間・吟味所など役所の一部は、文化13年(1816)の改築当時のものだ。元禄8年(1695)、高山城三之丸から移築した御蔵は年貢米を収めた蔵。国内最古・最大級の米蔵といわれる。門前の広場では毎日朝市を開催。所要30~60分(通訳ガイド要問合せ)。
明治23年(1890)に5代目当主が建て替えた合掌造り民家。白川郷でも最大級の5階建てで、大きな屋根の勾配の上から下までを貫く約11mの一本柱をはじめ、合掌柱には樹齢150~200年の檜や樹齢300年を超えるトチやケヤキなどが使われている。初代から3代目まで漢方医をしていたことから、江戸時代の薬箱や秤、美術品や什器なども展示しており、1階にある壮麗な造りの仏壇が印象的だ。養蚕の作業場だった3・4階では生活用品などを展示。
明治39年(1906)に明智町庁舎として建てられた木造の洋館で、昭和32年(1957)まで町役場として使用。現在2階には、日本大正村に関する写真が展示され、村長の執務室も設けられている。1階は休憩所として開放されており、座敷で自由にお茶を飲むことができる。役場内の公衆電話も大正風。所要10分。
明治37年(1904)、豪雨で山崩れが起こり一家4人が犠牲になったことを悼んで立てられた鎮魂碑。下方には、島崎藤村の筆による「山家にありて水にうもれたる蜂谷の家族四人之記念に島崎藤村しるす」の一文が刻まれている。現在は水車小屋が復元され、周辺は休憩の場となっている。
三代城主・金森重頼の弟、重勝の屋敷があった場所。町年寄川上斉右衛門の別邸となったのちの所有者、平田家と小森家が高山市に寄贈。池泉回遊式庭園と、左官の名手・江戸屋万蔵作の江戸後期建築の土蔵がある。
白川郷などから移築した10棟の合掌造りで構成された施設。桜ともみじの名所「歳時記の森」は、里山などの中に古民家がある日本の風景を再現しており、散策をしながら色づいた紅葉が楽しめる。
文治元年(1185)に築城され、織田信長の叔母が城主をつとめた城。標高717mの天嶮の地形を利用した日本三大山城のひとつで、「日本100名城」にも選定。城下には400年の歴史を誇る町並みが形成、重要伝統的建造物群保存地区に選定されている。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。