
旧三宅家
元禄元年(1688)に建てられたと伝わる茅葺き屋根のこの家は、明智から東へ約4kmの馬木地区、中馬街道沿いにあったもの。昭和53年(1978)に町の文化財に指定され、平成4年(1992)に現在の場所へ移築された。囲炉裏の上のすすけた天井裏など、昔の生活が偲ばれる。所要10分。
- 「明智(明知)駅」から徒歩9分
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元禄元年(1688)に建てられたと伝わる茅葺き屋根のこの家は、明智から東へ約4kmの馬木地区、中馬街道沿いにあったもの。昭和53年(1978)に町の文化財に指定され、平成4年(1992)に現在の場所へ移築された。囲炉裏の上のすすけた天井裏など、昔の生活が偲ばれる。所要10分。
明治39年(1906)に明智町庁舎として建てられた木造の洋館で、昭和32年(1957)まで町役場として使用。現在2階には、日本大正村に関する写真が展示され、村長の執務室も設けられている。1階は休憩所として開放されており、座敷で自由にお茶を飲むことができる。役場内の公衆電話も大正風。所要10分。
縄文時代前・中期の集落跡(史跡)のある公園。園内には当時の暮らしを伝える竪穴住居が復元されている。隣接する久々野歴史民俗資料館(無料、時間:8時30分~17時、休み:月曜、祝日の翌日、12~3月)には、出土品約200点や農具・民具など約350点の資料を展示。
平成21年(2009)、岐阜市制120周年を記念してJR岐阜駅前広場に登場。信長は「井口」と呼ばれていた当地を「岐阜」と改名し、天正4年(1576)まで約10年間岐阜を本拠地に「天下布武」を目指して戦いを続け勢力を拡大する一方、「楽市楽座令」など先進的な政策や制度でまちを発展させた。高さ約8mの台座にある約3mの黄金の織田信長公像は、市民の寄付で作られ表面は金箔3層張り。火縄銃と西洋兜を手に、マントを羽織った凛々しい姿が眩しい。
天正16年(1588)、金森長近がこの地に築城して城下町を開き、107年間にわたって支配。6代目の頼時が出羽国(現在の山形県)に転封となり、元禄8年(1695)に取り壊された。当時全国でも有数の規模を誇る山城だったが、今は2万平方メートルの敷地に三の丸堀、二の丸石垣、天守閣跡が昔の面影を残している。園内の広場からは市街の眺め、金竜ケ丘からは乗鞍岳など北アルプスの眺望がすばらしい。春は桜、秋は紅葉の名所で、遊歩道を散歩しながら森林浴やバードウォッチングも楽しめる。
大きな米倉7棟の中に、七福神など一木造りの巨大な木像を一体ずつ安置している展示館。樹齢1200年のケヤキを彫り抜いた全高7.5mの毘沙門天[びしゃもんてん]、樹齢1000年の杉を彫って造られた、全高6.5mの福禄寿など、どれも圧倒される迫力だ。ギネスブック認定。
荒川家は、天正年間(1573~92)から続くという旧家。主屋と土蔵は江戸中期に建てられたもので、飛騨の匠が腕をふるった建物は見応え充分。国の重要文化財にも指定されている。内部には、民具や伊達政宗が金森長近[ながちか]に宛てた書状などが並ぶ。
関ケ原合戦の際、石田三成が陣を布いたのが笹尾山。5分ほどで登ることができる山頂からは、関ケ原が一望できる。
三代城主・金森重頼の弟、重勝の屋敷があった場所。町年寄川上斉右衛門の別邸となったのちの所有者、平田家と小森家が高山市に寄贈。池泉回遊式庭園と、左官の名手・江戸屋万蔵作の江戸後期建築の土蔵がある。
戦国時代に江島氏が築城したと伝わる。元和元年(1615)、幕府の一国一城令によって閉城した。現在の城は、昭和45(1970)に福井の丸岡城を模し建築されたもの。城内では鎧や馬具などを展示している。
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