小山田1号遺跡
鎌倉時代から室町時代に武士階級が使った屋敷跡。崖面を切り崩す一大土木工事で、幅約50m、奥行き15m程度の平坦面を造成した場所に、12m×6m、深さ約1mの大型竪穴状遺構と、堀立柱建物跡が発見された。現在はガラス繊維補強セメントの被膜で遺跡全体を造形保存され、発掘当時の臨場感を体感できる。
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鎌倉時代から室町時代に武士階級が使った屋敷跡。崖面を切り崩す一大土木工事で、幅約50m、奥行き15m程度の平坦面を造成した場所に、12m×6m、深さ約1mの大型竪穴状遺構と、堀立柱建物跡が発見された。現在はガラス繊維補強セメントの被膜で遺跡全体を造形保存され、発掘当時の臨場感を体感できる。
八王子城は、戦国時代末に北条氏の支城として築城。城内に八王子権現を祭ったことから八王子城と呼ばれ、それが八王子の地名の由来になったとされている。城主は北条氏照。険しい山中に築かれた城だったが、天正18年(1590)に豊臣軍によって1日で落城した。現在、山麓には御主殿跡と再現された虎口、山頂には本丸跡や八王子神社があり、曲輪・掘切・井戸などの遺構が点在。国指定史跡。城跡入口から城跡山頂までは登り約1時間。日本城郭協会の「日本100名城」の一つに認定。八王子城跡オフィシャルガイドは八王子市文化財課に要問合せ。
丘陵地における住居跡発見の第1号として大正15年(1926)に国史跡に指定された遺跡。恩田川流域の丘陵地に牢場、稲荷山、八幡平の3つの遺跡があり、牢場遺跡では約3900年前の縄文後期の敷石住居跡、稲荷山遺跡では縄文後期から晩期の配石遺構、八幡平遺跡では約4500年前の中期末の敷石住居跡が発見された。
青梅街道沿いに残る、江戸後期建築の土蔵造の店蔵。街道に面した狭い間口いっぱいに土間をもつ前土間形式で、梁や柱には奥多摩のシオジ材が使われた。当時有数の豪商だった稲葉家は、材木問屋や青梅縞の仲買問屋を営み、明治後期まで商売を続けた。
室町時代に築かれた、片倉城の城跡を公園として整備。水車小屋や二の丸広場があり、市民の憩いの場となっている。花も多く、特に3月下旬のカタクリは有名。6月には菖蒲が咲き乱れる。園内には、国会議事堂内に設置されている「板垣退助像」や長崎の「平和祈念像」の作者として知られる、彫刻家・北村西望[せいぼう]の作品を含め複数の作品が置かれている。
旧永井家住宅は、町田市小野路町瓜生にあった民家を、永井氏から寄贈を受けた町田市が昭和50年(1975)に現在の地に移築復元した。このときの解体調査により、建物は17世紀後半(江戸時代初期)に建てられたことが判明するとともに、後世に大幅に手を加えられていることが明らかになったため、復元にあたっては横浜国立大学関口欣也助教授(当時)の指導のもと、建設時当初の姿に復元されている。内部は床一面に簾状のものが敷かれた「竹簾子床」(たけすのこゆか)などが特徴的で、むしろ敷の部屋をもつ当時の典型的な三間取型の民家となっている。
慶長9年(1604)に徳川幕府が江戸から四方に向かう五街道を整備したことで宿駅制度も整い、日本橋からの路程標識のために一里塚を1里間隔で道の両側に築き、榎を植え、1里を36町(約4km)と定めた。木曽の一里塚もその一つで、当時は道の両側に立っていたが、現在は西側の塚だけが残り、塚の上には武州御嶽山の大口真神の小祠が立っている。
昭和43年(1968)に畑を耕作中に偶然発見された縄文時代後期~晩期の墓地、祭祀場であり、都内で唯一見学できるストーンサークル。30基の墓からなる集団墓地が形成された後、その上に9×7mの環状積石遺構がつくられた。現在は実物を埋め戻し保存し、その上にレプリカによる復元がされている。
今井谷戸から山崎町を経て野津田に至る鎌倉街道の峠路の左側にあり、街道を往来した旅人たちののどを潤したといわれている。深さ約4mの表土部分は現在、風雨で崩れ原形を留めていないが、地表下約1.5mから下は直径70cmの円筒型の原形が保たれている。この井戸を含む七国山一帯は古道の面影を偲ぶことができる町田市では数少ないエリアといえる。
羽村駅に近い五ノ神社の境内にある古い井戸。「まいまいず」とはカタツムリのことで、その名のとおり地面から渦巻き状に掘られている。大同年間(806~810)のものといわれ、当時は垂直に掘る技術が未熟だったためにこの形になった。直径約16m、深さ約7.4m。昭和37年(1962)まで利用されていた。
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