東京都指定史跡 本町田遺跡
恩田川流域の丘陵頂部にある縄文時代と弥生時代の集落跡。今から約5500年前の縄文前期の竪穴住居址4軒、約1900年前の弥生中期の竪穴住居址7軒が、昭和42~43年(1967~68)の藤の台団地建設の際に調査され、その後、団地や住宅街に囲まれた遺跡公園として整備された。現在は縄文、弥生の住居が各1軒ずつ復元されており、市民の憩いの場となっている。
- 「玉川学園前駅」から徒歩22分
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恩田川流域の丘陵頂部にある縄文時代と弥生時代の集落跡。今から約5500年前の縄文前期の竪穴住居址4軒、約1900年前の弥生中期の竪穴住居址7軒が、昭和42~43年(1967~68)の藤の台団地建設の際に調査され、その後、団地や住宅街に囲まれた遺跡公園として整備された。現在は縄文、弥生の住居が各1軒ずつ復元されており、市民の憩いの場となっている。
町田市を北西部から南東部に貫く鶴見川の中流域、南西から伸びる丘陵が鶴見川に迫る三輪町白坂にある遺跡。凝灰岩質の岩盤を基盤とする丘陵の先端部に近い南側傾斜面に位置し、2つの支群に分かれている。昭和36年(1961)に調査され、2つの支群から合計13基の横穴墓が見つかり、現在は現道沿いの2基が保存整備されて、見学しやすくなっている。
天明5年(1785)に起きた天明の大噴火で、生き残った島民全員が八丈での避難生活を余儀なくされた時に、困難な生活を強いられた人々をまとめあげ、50年後に旧島民の帰島を果たした佐々木次郎太夫の屋敷跡。数年前まで建物が残っていたが、台風で崩壊してしまい、現在は玉石垣が残るだけだが、うっそうとしたソテツの大木や整然と積まれた石垣に往時を偲ばれる。
鎌倉時代から室町時代に武士階級が使った屋敷跡。崖面を切り崩す一大土木工事で、幅約50m、奥行き15m程度の平坦面を造成した場所に、12m×6m、深さ約1mの大型竪穴状遺構と、堀立柱建物跡が発見された。現在はガラス繊維補強セメントの被膜で遺跡全体を造形保存され、発掘当時の臨場感を体感できる。
羽村駅に近い五ノ神社の境内にある古い井戸。「まいまいず」とはカタツムリのことで、その名のとおり地面から渦巻き状に掘られている。大同年間(806~810)のものといわれ、当時は垂直に掘る技術が未熟だったためにこの形になった。直径約16m、深さ約7.4m。昭和37年(1962)まで利用されていた。
慶長9年(1604)に徳川幕府が江戸から四方に向かう五街道を整備したことで宿駅制度も整い、日本橋からの路程標識のために一里塚を1里間隔で道の両側に築き、榎を植え、1里を36町(約4km)と定めた。木曽の一里塚もその一つで、当時は道の両側に立っていたが、現在は西側の塚だけが残り、塚の上には武州御嶽山の大口真神の小祠が立っている。
釜の淵公園内にある、19世紀初頭のものと推定される農家。市内北部の山あいに残った住宅を移築したもので、広間形とよばれる部屋の間取りが特徴。杉皮と茅を混ぜて葺いた、山村特有のトラ葺屋根が目を引く。
上陸して最初に目にする、船着場のすぐ近くに立つモニュメント。新島は、9割近くがコーガ石とよばれる特殊な軽石でできている世界でも珍しい島だが、塔はそのコーガ石で造られている。上まで登るとかなり高いので、帰りの船を待つ間に展望を楽しんだり、旅の記念写真を撮るのがおすすめだ。風が強いので、帽子などが飛ばされないよう注意しよう。
波浮港西岸の高台にある見晴らし台は、巾着型をした波浮港のほぼ全景を見渡すことができる。歌詞に波浮港が登場する、都はるみのヒット曲『アンコ椿は恋の花』の歌碑が立つ。
今井谷戸から山崎町を経て野津田に至る鎌倉街道の峠路の左側にあり、街道を往来した旅人たちののどを潤したといわれている。深さ約4mの表土部分は現在、風雨で崩れ原形を留めていないが、地表下約1.5mから下は直径70cmの円筒型の原形が保たれている。この井戸を含む七国山一帯は古道の面影を偲ぶことができる町田市では数少ないエリアといえる。
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