岡倉天心記念公園
谷中銀座の南にある公園。日本近代美術の先駆者だった天心が、横山大観とともに設立した日本美術院の跡地である。園内に建つ六角堂には、平櫛田中[ひらぐしでんちゅう]作の天心座像が安置されている。
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谷中銀座の南にある公園。日本近代美術の先駆者だった天心が、横山大観とともに設立した日本美術院の跡地である。園内に建つ六角堂には、平櫛田中[ひらぐしでんちゅう]作の天心座像が安置されている。
三菱の創設者、岩崎家の旧本邸。敷地内には洋館、和館、撞球室(ビリヤード場)が現存し、重要文化財に指定されている。洋館はジョサイア・コンドルの設計により、明治29年(1896)に完成したもので、日本を代表する木造の西洋風邸宅。書院造りを基調とする和館との和洋併置式は、その後の日本の建築文化にも影響を与えている。
約100年前まで上野に鎮座していた大仏。関東大震災で首が落ち、第二次世界大戦では、軍によって胴体が徴収されてしまったため、現在はお顔のみが残る。大仏に降りかかった幾多の災難から、「もうこれ以上は落ちない」として、合格祈願に来る受験生に人気。
文人趣味豊かな庭園として文化元年(1804)頃に創設。百花園とは「四季百花の乱れ咲く園」という意味とされ、四季の草花の野趣に満ちている。芭蕉句碑をはじめ数多くの碑が立つ。夏から秋にかけ伝統行事「虫ききの会」「月見の会」が催され夜間公開もある。1月下旬から3月上旬には20種以上の梅が、9月下旬頃には約30mにおよぶ萩のトンネルが、見頃を迎える。
江戸時代中期に下総国関宿藩主 久世大和守の下屋敷となり庭園のもとが形造られた。明治11年(1878)に三菱財閥の創始者・岩崎彌太郎がこの邸地を含む周辺の土地を取得、造園を計画し、明治13年(1880)に「深川親睦園」として開園。木々の影を映す大泉水に全国の名石を配した回遊式林泉庭園。サトザクラや花菖蒲などの花も咲く。
アメリカ人宣教師・マッケーレブが明治40年(1907)に住居として建築した。木造2階建ての建物は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を持った簡素なもの。これは豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、明治期の宣教師の住居として貴重。東京都指定有形文化財。マッケーレブ師は昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間をこの家で過ごしている。
今井谷戸から山崎町を経て野津田に至る鎌倉街道の峠路の左側にあり、街道を往来した旅人たちののどを潤したといわれている。深さ約4mの表土部分は現在、風雨で崩れ原形を留めていないが、地表下約1.5mから下は直径70cmの円筒型の原形が保たれている。この井戸を含む七国山一帯は古道の面影を偲ぶことができる町田市では数少ないエリアといえる。
明治時代に起こった自由民権運動は、実は町田を含む多摩地方が大きな拠点の一つとなっていたが、江戸末期の安政6年(1859)、現在の町田市野津田に生まれた村野常右衛門は若き頃からその洗礼を受けた著名な運動家で、後に政界に転じて衆議院議員となり、当時の首相・原敬の右腕とまで称されるようになった。この建物は江戸時代末の創建当時は茅葺きであったが、常右衛門が大正13年(1924)に当時としては珍しい鉄板葺きにするなど、改築を行っている。
現在、サンシャインシティのある場所には東京拘置所(時期によって巣鴨プリズン、巣鴨刑務所などとも)が置かれていた。戦後、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦犯容疑者が収容されており、同裁判の判決後、ここで東條英機らA級戦犯7名を含む戦犯の死刑が執行された。処刑場だった辺りは東池袋中央公園となっている。
桜新町駅の北東、かつての豊多摩郡渋谷町の町営水道施設として使用された給水塔。近代水道の父と呼ばれる中島鋭治博士の設計で、大正13年(1924)に完成した。鉄筋コンクリート造り円筒形の2基の配水塔は、「丘の上のクラウン」と呼ばれた通り、その上部に王冠を模した独創的な装飾が施され、大正ロマンを感じさせる。施設の敷地内部は非公開だが、今でも街のシンボルであり、「双子の給水塔」として親しまれている。平成24年(2012)、土木学会選奨土木遺産として認定。
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