興国寺
正嘉2年(1258)に源実朝を弔うために建立された寺で、法燈国師[ほっとうこくし](覚心)が開祖である。覚心は、醤油の誕生のきっかけとなった径山寺[きんざんじ]味噌の製法を宋から持ち帰り、この地に伝えた人物。また、虚無僧[こむそう]4名を宋から伴って帰国し、全国に普化[ふけ]尺八を広めたことでも知られ、毎年10月13日の開山忌[かいさんき]には尺八の献奏も行われる。8月15日の孟蘭盆会[うらぼんえ]の灯籠焼き(火祭り)の踊りは、和歌山県指定無形民俗文化財。
- 「紀伊由良駅」から徒歩15分
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正嘉2年(1258)に源実朝を弔うために建立された寺で、法燈国師[ほっとうこくし](覚心)が開祖である。覚心は、醤油の誕生のきっかけとなった径山寺[きんざんじ]味噌の製法を宋から持ち帰り、この地に伝えた人物。また、虚無僧[こむそう]4名を宋から伴って帰国し、全国に普化[ふけ]尺八を広めたことでも知られ、毎年10月13日の開山忌[かいさんき]には尺八の献奏も行われる。8月15日の孟蘭盆会[うらぼんえ]の灯籠焼き(火祭り)の踊りは、和歌山県指定無形民俗文化財。
那智熊野大社と並んでたたずむ、西国三十三カ所第1番札所。補陀洛山寺[ふくだらくさんじ]と同様、裸形[らぎょう]上人が開いたといわれ、熊野詣の重要拠点として栄えた。織田信長の兵火で焼失するが、天正18年(1590)豊臣秀吉が再建。最盛時には7カ寺36坊を有したが、明治時代の廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]で入母屋造の本堂(重要文化財)を残して、ほとんどが失われてしまった。本堂と那智滝の中間に立つ高さ25mの朱塗りの三重塔は、昭和47年(1972)に再建され、三層の展望台からは那智の滝の全貌を望むことができる。
熊野の神々を祭る熊野本宮大社の神域に入る地に立つとされた重要な王子社。発心とは仏門に入り修行を始めることで、ここが聖域への入口を意味している。現在では鳥居と朱色の社殿があり、秋には周囲の木立が紅葉に染まる。
弘法大師によって慈尊院とともに創建された古社。天照大御神の御妹神で地主神の丹生都比売大神[にうつひめのおおかみ]の御子・高野御子大神[たかのみこのおおかみ](狩場明神)が猟師の姿で現れ、従えていた2頭の犬を放たれ大師を高野山に導いたことから祀られた。また、朝廷(国)から免税などの特権のある官省符を下賜されたと伝わる。天文10年(1541)に再建された本殿は3棟からなり、国の重要文化財に指定されている。いずれも一間社春日造、檜皮葺。極彩色の美しい社殿だ。文化財として鼎、獅子頭等、また、真田幸村が奉納したと伝えられる太刀を所蔵する。
平安時代の創建と伝えられる寺。秀吉の紀州攻めで境内のほとんどが焼失したものの、本尊の如意輪観音は焼け残ったとされる。紀州徳川藩主・徳川頼宣が本堂を再建したのち、紀州徳川家の祈願寺となった。
開山以来、表玄関の役割を果たす高野山一山の総門。九度山町の慈尊院から続く町石道の表参道を上ると、ここからが山内となる。開創当時は現在の位置から500m下の九折谷の谷底に木の鳥居があった。高さ約25mの現在の朱塗の楼門は、宝永2年(1705)に再建されたもの。昭和61年(1986)にも大がかりな解体修理が行われた。大門の両脚に構える高さ4.8mの力強い金剛力士像は、阿形像を仏師康意が、吽形像を法橋運長が造ったとされている。ここからの眺望がよく、晴れた日には山並みの向こうに紀淡海峡から淡路島まで望める。また、大門の左の赤い鳥居から原生林に囲まれた山道を約600m登ると、高野山最高峰の弁天岳に至る。
有田市東部にある浄土宗西山派の末寺。琴の名手で天皇から三位の位と中将の名を賜った中将姫ゆかりの寺だ。その昔、姫の名声をねたんだ継母が伊藤春時に殺害を命じる。が、姫の徳に打たれた春時は、逆に剃髪し、名を得生と改め姫を守った。このことが名の起こりといわれる。姫がハスの糸で織った浄土曼荼羅図などの寺宝も、予約しておけば拝観できる。また、毎年5月14日には、中将姫が極楽浄土に旅立つ様子を表した中将姫来迎大会式[らいごうだいえしき]が盛大に行われる。
虎関[こかん]師錬開山の臨済宗東福寺派の寺。天明6年(1786)、津波で大破していた寺を愚海[ぐかい]和尚が再建した際、友人の画家・円山応挙が再建祝いとして方丈の障壁画を描き、その作品を弟子の長沢芦雪が寺に届けた。芦雪もまた、この寺に滞在している間、多くの襖絵などを描き残したため、無量寺は「芦雪寺」とよばれている。
小栗判官を中興の祖とする古刹。小栗は湯の峰温泉に向かう途中、病気になった愛馬の回復をこの寺で祈願。たちまち全快したことに感激し、堂宇を再建したと伝わる。今では開運厄除の霊場として広く信仰されており、山上に諸堂が点在している。
源頼朝の菩提を弔うために妻の北条政子が創建。建暦元年(1211)の創建当時は禅定院とよばれていたが、貞応2年(1223)、現在の寺号に改めて、多宝塔(国宝)を建立。鎌倉時代には、高野版とよばれる経典による教学の拠点で、高野山の中心的存在であった。大火の類焼を免れた寺の境内には、運慶作といわれる五智如来坐像(重要文化財)を安置する多宝塔のほか、鎌倉・室町時代の建築物が残る。客殿(重要文化財)は、江戸時代の建築だが、大広間にある襖絵『金地著色梅花雉子図』は雄大華麗な作風が見事で、秘仏の十一面千手観音像、本尊愛染明王像とともに国の重要文化財に指定。寺は宿坊も兼ねており、宿泊者は客殿内部の見学も可。所要1時間。
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