 
													粉河寺
宝亀元年(770)に創建され、『枕草子』にも登場する古刹。正式には風猛山[ふうもうざん]粉河寺。粉河観音宗の総本山で西国三十三カ所第3番札所として名高い。最盛期には七堂伽藍、塔頭550坊、寺領四万石を有し、高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇ったが、秀吉の紀州攻めの際に諸堂を焼失。江戸時代に再建された。大門、中門、本堂、千手堂(いずれも重要文化財)などがたたずむ。『紙本著色[しほんちょしょく]粉河寺縁起絵巻』は平安時代に描かれたもので、国宝に指定されている。
- 「粉河駅」から徒歩19分
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													宝亀元年(770)に創建され、『枕草子』にも登場する古刹。正式には風猛山[ふうもうざん]粉河寺。粉河観音宗の総本山で西国三十三カ所第3番札所として名高い。最盛期には七堂伽藍、塔頭550坊、寺領四万石を有し、高野山、根来寺に次ぐ勢力を誇ったが、秀吉の紀州攻めの際に諸堂を焼失。江戸時代に再建された。大門、中門、本堂、千手堂(いずれも重要文化財)などがたたずむ。『紙本著色[しほんちょしょく]粉河寺縁起絵巻』は平安時代に描かれたもので、国宝に指定されている。
 
													壇上伽藍の境内の蓮池畔に立つ、高野山内に現存する建物の中で最古の堂。建久9年(1198)に行勝上人が一心院谷に創建したものを明治時代にこの地に移築した。勾配のゆるい檜皮葺きの屋根を持つ現在の建物は鎌倉時代後期のものといわれ、国宝に指定。本尊の不動明王坐像(国指定重要文化財)と運慶作の八大童子立像(国宝)はいずれも高野山霊宝館に収蔵されている。不動堂の拝観は外観のみ。
 
													那智熊野大社と並んでたたずむ、西国三十三カ所第1番札所。補陀洛山寺[ふくだらくさんじ]と同様、裸形[らぎょう]上人が開いたといわれ、熊野詣の重要拠点として栄えた。織田信長の兵火で焼失するが、天正18年(1590)豊臣秀吉が再建。最盛時には7カ寺36坊を有したが、明治時代の廃仏毀釈[はいぶつきしゃく]で入母屋造の本堂(重要文化財)を残して、ほとんどが失われてしまった。本堂と那智滝の中間に立つ高さ25mの朱塗りの三重塔は、昭和47年(1972)に再建され、三層の展望台からは那智の滝の全貌を望むことができる。
 
													小栗判官を中興の祖とする古刹。小栗は湯の峰温泉に向かう途中、病気になった愛馬の回復をこの寺で祈願。たちまち全快したことに感激し、堂宇を再建したと伝わる。今では開運厄除の霊場として広く信仰されており、山上に諸堂が点在している。
 
													平安時代初期の弘仁7年(816)に、弘法大師(空海)が開山した真言密教の聖地。本来は、高野山全体が「総本山金剛峯寺」であり、「一山境内地」といわれるように高野山全域がその境内地だ。高野山という山はなく、周囲を8つの峰に囲まれた標高約900mの山上盆地に、国指定史跡の壇上伽藍と奥之院の二大聖地を中心に117カ寺が集い、一大宗教都市を形成。ユネスコの世界遺産「紀伊山地の霊場と参詣道」の構成資産にも登録されており、今もなお大師信仰を求める参拝客をはじめ、観光や宿坊体験、森林セラピーなどで多くの人々が訪れる。
 
													源頼朝の菩提を弔うために妻の北条政子が創建。建暦元年(1211)の創建当時は禅定院とよばれていたが、貞応2年(1223)、現在の寺号に改めて、多宝塔(国宝)を建立。鎌倉時代には、高野版とよばれる経典による教学の拠点で、高野山の中心的存在であった。大火の類焼を免れた寺の境内には、運慶作といわれる五智如来坐像(重要文化財)を安置する多宝塔のほか、鎌倉・室町時代の建築物が残る。客殿(重要文化財)は、江戸時代の建築だが、大広間にある襖絵『金地著色梅花雉子図』は雄大華麗な作風が見事で、秘仏の十一面千手観音像、本尊愛染明王像とともに国の重要文化財に指定。寺は宿坊も兼ねており、宿泊者は客殿内部の見学も可。所要1時間。
 
													高野山壇上伽藍にあり、高さ約50mの5間4面の多宝塔で真言密教の根本理念を表す。弘法大師が着手し、2代座主の真然大徳[しんぜんだいとく]のときに完成。天保14年(1843)に焼失し、以後再建されずにいたが、昭和12年(1937)に再建。内部は大日如来の本尊を中心に東西南北に金剛界四仏を置き、周囲の柱に十六大菩薩を配し、曼陀羅を立体的に表している。
 
													今から1700年前に創建されたと伝えられる古社で、丹生都比売大神を祀る全国180余社の総本社。元寇の時に幕府がこの神社に祈願をかけたところ、大風が吹き国難が去ったことから紀伊國一宮となった。弘法大師はこの神社から社地を借受けて1200年前に高野山を開山し、それ以来真言密教の守護神としても知られる。壮麗な彫刻と彩色が施された本殿四殿は、春日造りで最大の規模を誇り、楼門とともに国の重要文化財。鏡池に架かる朱塗りの太鼓橋は、標高450mの天野盆地の里山の風景に溶けこみ四季折々に美しい。
 
													奥之院御廟の前室として、真然[しんぜん]が創建。奥之院参道正面の石段上にあり、弘法大師へ献上するたくさんの灯籠が堂内いっぱいに下げられている。なかでも長和5年(1016)、祈親[きしん]上人が高野山の復興を祈念して献灯した祈親燈は、貧しいお照という娘が髪を切って売り、献じたものと伝えられ、俗称「貧女の一灯」ともいわれる。寛治2年(1088)に白河法皇が献じた白河燈とともに「消えずの燈明」とよばれ、絶えることなく燃え続けている。建物は昭和中期の改築で、地下には多数の奉納燈籠が並ぶ「地下法場」もある。
 
													奥之院とともに高野山の二大聖地の一つとされる壇上伽藍の中央に位置する御堂。創建当時には講堂と呼ばれていたもので、高野山の開創当時からの歴史をもつという高野山一山の総本堂だ。現在も高野山の重要行事の多くがこの金堂で執り行われている。度重なる火災に遭い、現在の金堂は昭和7年(1932)に再建されたもの。本尊薬師如来像は、明治時代の彫刻家・高村光雲の作で秘仏。
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