
野上八幡宮
国道370号沿いにあり、550年代に創建された古社。本殿、拝殿、摂社武内神社本殿、刀剣など国の重要文化財が多数ある。
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国道370号沿いにあり、550年代に創建された古社。本殿、拝殿、摂社武内神社本殿、刀剣など国の重要文化財が多数ある。
国宝。真言密教の教義を形にした、根來寺の中心的堂宇。100年以上の歳月をかけて建立された。天文16年(1547)に完成。高さ約40mで、木造の大塔としては国内最大級。現存する唯一の中世の大塔である。円形の堂内には胎蔵界[たいぞうかい]の大日如来を囲んで、四仏四菩薩が安置されている。
正嘉2年(1258)に源実朝を弔うために建立された寺で、法燈国師[ほっとうこくし](覚心)が開祖である。覚心は、醤油の誕生のきっかけとなった径山寺[きんざんじ]味噌の製法を宋から持ち帰り、この地に伝えた人物。また、虚無僧[こむそう]4名を宋から伴って帰国し、全国に普化[ふけ]尺八を広めたことでも知られ、毎年10月13日の開山忌[かいさんき]には尺八の献奏も行われる。8月15日の孟蘭盆会[うらぼんえ]の灯籠焼き(火祭り)の踊りは、和歌山県指定無形民俗文化財。
新義真言宗の総本山。長承元年(1132)、宗祖覚鑁上人(興教大師)が高野山に大伝法院を創建したことに始まる。南北朝から室町時代にかけて大きく発展し境内に多くの院家を擁する一大宗教都市となった。現存する本尊(重要文化財)や大塔(国宝)もこの頃に再建されたもの。天正13年(1585)、天下統一をめざす秀吉の紀州攻めにより堂塔・院家の多くを焼失したが、江戸時代には紀州徳川家の支援などを得て復興した。現在、境内地の大部分は国の史跡に指定されている。桜や紅葉の名所としても有名。
医薬の祖神と伝えられる少彦名命[すくなひこなのみこと]を祭り、安産・子授け・婦人病などに霊験あらたかという。またスクナヒコナノミコトは雛祭りの語源といわれ、社を移した日が3月3日だったので雛祭りの日になったとされる。宝物殿では、紀州徳川家から奉納された雛人形や遊具を展示している。
紀州徳川家ゆかりの名草御殿に面する奥書院庭園と、聖天池などからなる庭園。国の名勝に指定されている。奥書院庭園は洗練された地泉式蓬莱庭園[ちせんしきほうらいていえん]。山腹の斜面を利用して3段の滝を落とし、池には大小2島を築いて石橋を渡す。奥書院に南面する庭園は枯山水様式である。いずれも江戸時代の作庭。聖天池には善女龍王を祀る中島が浮かぶ。
粉河寺の境内に立つ神社。宮司が引き取った2羽のクジャク、鶏4羽(チャボ)が飼われており、参拝客は自由に見ることができる。8~9月は尾羽が抜け落ちるので羽を広げることはない。
古代から中世にかけて、熊野三山へ参拝する上皇・法皇が宿泊。王子の中でも格式の高い五躰王子の一つ、藤白王子跡。子授け・安産・健康・長寿の神様として今も信仰を集めている。近くには全国の鈴木姓のルーツともなった、鈴木氏の鈴木屋敷がある。熊野古道筋に唯一残る、熊野本地仏三躰が藤白王子権現本堂に祀られている。神仏霊場。平成27年(2015)10月に熊野参詣道紀伊路(藤白王子、藤白坂塔下王子など)が国指定史跡に認定された。
平安時代に京都の八坂神社の神を勧請し、南部庄の総鎮守として祭ったことに始まる。明治時代までは祇園御霊宮と称し、今も地元では「御霊さん」と呼ばれる。現在の春日造の本殿は江戸中期以後の建立。極彩色に塗られた豪華なもので、和歌山県文化財に指定。
紀伊田辺駅の北、会津川のほとりに立つ「弘法さん」で親しまれる寺。寺伝によると、草創は聖徳太子で、弘法大師が中興したとされ、豊臣秀吉の紀州征伐で焼き討ちされた。境内を見渡すと、文化年間(1804~18)に建てられた多宝塔がひときわ目を引く。また、縄文時代の貝塚跡や、墓地には南方熊楠[みなかたくまぐす]や合気道創始者の植芝盛平[うえしばもりへい]の墓もある。
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