漱石公園
漱石が晩年を過ごした場所は、現在、一部が漱石公園として整備され、一般に公開されている。ここにあった漱石山房は東京大空襲で焼失してしまったが、漱石が寛いだ山房のベランダが再現されているほか、胸像や猫塚がある。新宿区立漱石山房記念館が隣接している。
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漱石が晩年を過ごした場所は、現在、一部が漱石公園として整備され、一般に公開されている。ここにあった漱石山房は東京大空襲で焼失してしまったが、漱石が寛いだ山房のベランダが再現されているほか、胸像や猫塚がある。新宿区立漱石山房記念館が隣接している。
漱石の生家の跡で、記念碑が建っている。隣の小倉屋酒店は、堀部安兵衛が高田馬場の決闘の前に枡酒を飲んで勢いをつけたと伝えられる店。
現在、サンシャインシティのある場所には東京拘置所(時期によって巣鴨プリズン、巣鴨刑務所などとも)が置かれていた。戦後、極東国際軍事裁判の被告人とされた戦犯容疑者が収容されており、同裁判の判決後、ここで東條英機らA級戦犯7名を含む戦犯の死刑が執行された。処刑場だった辺りは東池袋中央公園となっている。
湯島聖堂とニコライ堂の2つの聖堂を結んでいることから名づけられたという聖橋。昭和2年(1927)に関東大震災後の復興橋の一つとして造られた橋で、長さ約92m、幅22mの鋼併用コンクリート構造のアーチ橋。お茶の水橋から眺めるアーチ型の聖橋と、オレンジ色や黄色の電車が停車する御茶ノ水駅が重なる風景はまるで絵画のようだ。千代田区景観まちづくり重要物件。
ペリーの来航後、異国船に備え江戸幕府によって築かれた砲台跡で、昭和3年(1928)から史跡公園として開放。砲台跡や火薬庫跡などが残る。当時は海上にあったが、現在はお台場海浜公園沿いに歩いて渡ることができる。石垣の上からは対岸にあるデックス東京ビーチやフジテレビを眺望可。レインボーブリッジも間近に見られる絶好のロケーション。
約100年前まで上野に鎮座していた大仏。関東大震災で首が落ち、第二次世界大戦では、軍によって胴体が徴収されてしまったため、現在はお顔のみが残る。大仏に降りかかった幾多の災難から、「もうこれ以上は落ちない」として、合格祈願に来る受験生に人気。
旧館(本館、2号館、3号館)、新館、分館の3つで構成されている日本銀行本店。なかでも一番古いのが明治29年(1896)建造の本館。東京駅の設計者・辰野金吾の設計による、外装に花崗岩や安山岩を用いた石積みレンガ造の古典主義様式で、国指定重要文化財だ。本館1階には広々とした旧営業場、地下には旧地下金庫。2階には歴代総裁の肖像画や、かつて日本銀行で使用されていた貴重な品々を展示する史料展示室がある。見学は事前予約制、公式サイトより申込。
アメリカ人宣教師・マッケーレブが明治40年(1907)に住居として建築した。木造2階建ての建物は、19世紀後半のアメリカ郊外住宅の特色を持った簡素なもの。これは豊島区内に現存する最古の近代木造洋風建築であり、明治期の宣教師の住居として貴重。東京都指定有形文化財。マッケーレブ師は昭和16年(1941)に帰国するまでの34年間をこの家で過ごしている。
東海道をはじめ、中山道・甲州街道・日光街道・奥州街道と、徳川幕府が定めた五街道の起点。ここから日本全国へ街道がのびている。江戸時代にはアーチ状の木橋だったが、明治時代に現在のルネッサンス風の石橋に。日本橋の文字が刻み込まれたプレートは、徳川15代将軍慶喜の筆によるものだ。橋の真中には、「日本国道路元標」のプレート(橋のたもと元標の広場にレプリカ設置)が埋め込まれている。
緑の芝生が広がり、心地よさ満点のこちらの公園を中心に、約700m四方ほどの一帯から、多くの遺跡が発掘された。特に古墳時代のものが多く、園内では当時の竪穴式住居や古墳を再現、展示している。伊興遺跡におけるこれまでの発掘状況を伝える解説や、古墳時代の伊興周辺をイメージしたジオラマ、実際に出土した土器を復元して紹介する展示館もあり、興味津々。いにしえに想いを馳せてみては。
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