北円堂
養老5年(721)、藤原不比等[ふじわらのふひと]の1周忌に際し建立された。堂々とした八角円堂だが、現在の建物は鎌倉時代の再建。堂内には運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊弥勒如来像(国宝)の、無著[むじゃく]・世親[せしん]菩薩像(国宝)などを安置、毎年春と秋に特別公開される。
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養老5年(721)、藤原不比等[ふじわらのふひと]の1周忌に際し建立された。堂々とした八角円堂だが、現在の建物は鎌倉時代の再建。堂内には運慶一門が制作した鎌倉時代の本尊弥勒如来像(国宝)の、無著[むじゃく]・世親[せしん]菩薩像(国宝)などを安置、毎年春と秋に特別公開される。
天文10年(1541)、今井兵部[ひょうぶ]が開いた浄土真宗の道場がのちに寺に改められた。今井町はこの寺の境内地から寺内町として発達したもので、初代兵部以来、現在まで今井家が住職を務める。本堂は重要文化財。
聖武天皇に招かれて唐から苦難の末に渡ってきた鑑真[がんじん]和上が、新田部[にいたべ]親王の旧邸跡を賜り、天平宝字3年(759)に建立した。当初は簡素な建物であったが、朝廷などの寄進により徐々に伽藍を整えていった。境内には、奈良時代建立の国宝の金堂・講堂・鼓楼・経蔵、国指定重要文化財の礼堂・御影堂など、災禍を免れた建物が創建時の姿をよく残している。御影堂の国宝・鑑真和上像は日本最古の肖像彫刻として知られる。境内には「若葉して御眼[おんめ]の雫拭[しずくぬぐ]はばや」の芭蕉句碑も立つ。
東大寺法華堂のすぐ北に位置し、毎年3月に修二会[しゅにえ](お水取り)が行われることで知られる。修二会が旧暦2月に行われたことから、二月堂の名が付いた。寛文7年(1667)に火災で全焼。現在の堂はその2年後、焼失前の形そのままに再建された。懸崖造で、大仏殿の屋根を眼下に奈良市内が一望できる。本尊は絶対秘仏の十一面観音。
聖武天皇の勅願により創建された寺。大仏開眼の導師を務めたインド僧菩提僊那[ぼだいせんな]と行基が開いたと伝わる。本堂(国宝)には平安後期の薬師三尊像(重要文化財)を祭る。三重塔(重要文化財)、十一面観音立像(重要文化財)など優れた建築や彫刻を所蔵。洋風バラ園もあり、200種2000株のバラが春と秋に咲く。
寛文3年(1663)、大和小泉藩主片桐貞昌[かたぎりさだまさ]が父の菩提を弔うために建立した。茅葺き屋根の書院(重要文化財)は簡素ながら風格があり、白砂とツツジの大刈込みが美しい庭園(史跡・名勝)をもつ。書院には高林庵(重要文化財)と閑茶室(重要文化財)という茶室がある。
天武天皇の勅願による建立と伝え、僧坊48を数える大寺だったという。本堂は平成15年(2003)秋に平成の大修理が完了した。本尊の地蔵菩薩立像(重要文化財)は貞観時代の作で、「矢田のお地蔵さん」と親しまれている。境内には石仏が多く、自家製の味噌を口元に塗ると味がよくなるという、「味噌なめ地蔵」は特に有名。シチダンカ・ツルアジサイなど、60種1万株のアジサイも名高い。
光明皇后が、父藤原不比等[ふひと]の邸宅跡に建てた総国分尼寺で、法華滅罪之寺[ほっけめつざいのてら]と称した。平安遷都後は衰退したが、慶長6年(1601)に豊臣秀頼、淀殿により現在の本堂(重要文化財)、鐘楼(重要文化財)、南門(重要文化財)が再建された。本尊の木造十一面観音立像(国宝)は光明皇后がモデルといわれるが、特別開扉時以外は御分身(模刻像)を拝する。本坊の庭園は名園として名高い。
興福寺にある、高さ約50mの塔。古塔としては京都・東寺の五重塔に次ぐ高さで、奈良のシンボルとして親しまれている。天平2年(730)、光明皇后によって創建されたが、たびたび焼失。現在の塔は6度目の再建だ。室町時代の建築ながら、東金堂と同様、天平様式を踏襲している。現在は約120年ぶりの修理工事が進められ、令和13年(2031)3月までの予定となっている。
嵯峨天皇の勅願で弘仁5年(814)に創建。奈良県指定有形文化財の本堂には虚空蔵菩薩を安置。「高樋[たかひ]の虚空蔵[こくぞう]さん」と親しまれ、13歳になった子どもに知恵を授けてもらう十三参りで知られる。明星堂の空海作と伝わる木造明星菩薩立像は国指定重要文化財だ。
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