
飛鳥坐神社
天長6年(829)、神奈備山から現在地に移転。境内には陰陽石が多数置かれ、子授けの神として信仰される。2月第1日曜のおんだ祭は田植えと夫婦和合の所作で、五穀豊穣・子孫繁栄を祈願する祭として有名。
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天長6年(829)、神奈備山から現在地に移転。境内には陰陽石が多数置かれ、子授けの神として信仰される。2月第1日曜のおんだ祭は田植えと夫婦和合の所作で、五穀豊穣・子孫繁栄を祈願する祭として有名。
奈良時代に元正天皇の勅願で行基が開いた高天寺に始まると伝わる。金剛山中腹の台地に立つこの寺の背後が高天原の伝承地。静かな一帯はまさに神々のふるさとを思わせる。
大神神社、大和神社、石上神宮と並ぶ大社。創建は約2000年前(崇神天皇60年)といわれ、延喜の制で名神大社に列せられた。祈年・月次・相嘗・新嘗等の宮幣に預かる。もと弓月ケ岳[ゆづきがたけ]の山頂にあった上社を麓までおろして下社としたのが、現在の神社といわれる。一の鳥居近くには相撲[すもう]神社がある。『日本書紀』によると、垂仁天皇の前で当麻蹶速[たいまのけはや]と出雲の野見宿禰[のみのすくね]が生死をかけた力比べをした場所といわれ、相撲発祥の地とされる。
明治22年(1889)の創建で、祭神は後醍醐天皇。後村上天皇自らが彫ったと伝えられる後醍醐天皇の尊像を、吉水神社から奉遷して創祀された。現在の総檜造の社殿は昭和7年(1932)の造営。境内の摂社3社には、日野資朝[ひのすけとも]など建武中興の功臣7人を祀る。
弘仁9年(818)、空海が入峯した時に建てた椿山寺[ちんざんじ]に始まるといわれ、金峯山寺四律院に数えられたが、現在は単立寺院。境内の小高い位置に広がる池泉回遊式庭園の群芳園[ぐんぼうえん]は大和三庭園の一つ。秀吉が花見をし、後に細川幽斎[ゆうさい]が改修したと伝えられ、吉野の山を借景とする。寺は格調高い宿坊としても知られる。
唐招提寺にある、現存する天平建築最大の豪壮な建物。鑑真和上の死後、弟子の如宝が建立したと伝える。正面7間、側面4間の寄棟造。大棟の両端に鴟尾[しび]を飾った大屋根、エンタシスといわれる前面の列柱には荘重感がある。千体仏を背負った高さ3mの本尊盧舎那仏坐像(国宝)の左右に、953本の手をもつ5.4mの千手観音立像(国宝)と、像高3.36mの薬師如来立像(国宝)が並ぶ。
大和郡山の町中に佇む秀長の菩提寺。旧寺号は東光寺と称し、春岳院の名は秀長の戒名による。本堂は正徳元年(1711)の再建。寺宝に足利尊氏の念持仏という千手観音を伝え、狩野貞信[かのうさだのぶ]筆の秀長画像などもある。秀長統治時代の郡山を知る資料も数多く伝える。拝観は事前に連絡を。
高取山の中腹にある、西国三十三カ所観音霊場第6番札所。大宝3年(703)の創建といわれ、平安時代に大いに栄えた。本尊は、眼病平癒の霊験あらたかという十一面千手観音坐像で、人形浄瑠璃『壷阪霊験記』でも知られる仏さまだ。境内には重要文化財の三重塔や礼堂などに交じって、昭和以降に造立された、高さ20mもの大観音石像や涅槃石像、釈迦の生涯を描いた石造レリーフなどが並ぶ。
聖徳太子生誕の地とも、太子建立の7カ寺の一つともいわれる。創建年は推古天皇14年(606)、文献では天武9年(680)に初めて登場する。8世紀には66もの堂塔があったが、現在の本堂、観音堂などは江戸期の再建。室町時代の聖徳太子坐像(重要文化財)などを伝え、境内に残る塔心礎は3つの副柱[そえばしら]の穴をもつ優美なもの。2つの顔が刻まれた二面石もある。除夜の鐘は、毎年12月31日23時から自由に参加し、撞くことができる。
中将姫の伝説を残す寺。姫が蓮糸を染めたといわれる染の井と、染めた糸を枝にかけて乾かしたという糸かけ桜があるため、別名・染寺[そめでら]とも呼ばれる。創建は天智天皇の勅願とされ、日本最古の弥勒石仏が残る。石仏の開帳は1月1日~1月末、4月20日~5月20日。4月中旬~4月下旬にかけて約2000株のボタンが咲き、4月下旬~5月中旬にかけて1000株のシャクヤクが咲く。11月下旬~1月下旬に咲く寒ボタンも名高い。
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