
白山下山佛
明治初年の廃仏顕釈[はいぶつきしゃく]令により、白山の6000体の仏像が破壊された。しかし、山頂に安置されていた本地仏等8体は、当時の住職によって難を逃れ、林西寺に安置されている。御前峰の十一面観音像をはじめ、国・県の文化財に指定されている。
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明治初年の廃仏顕釈[はいぶつきしゃく]令により、白山の6000体の仏像が破壊された。しかし、山頂に安置されていた本地仏等8体は、当時の住職によって難を逃れ、林西寺に安置されている。御前峰の十一面観音像をはじめ、国・県の文化財に指定されている。
鬼子母神を祭る寺で、子授けや安産を願う参拝者が多い。泉鏡花も幼い頃、母と参拝に訪れたという。人形塚があることから人形寺とも呼ばれ、毎年4月29日には人形供養会が行われる。初夏には、境内のザクロが赤い花をつけ美しい。歌舞伎役者の初代中村歌右衛門の墓、加賀蒔絵の祖五十嵐道甫[どうほ]の墓碑もある。
山中温泉を発見した僧行基が、自ら彫りあげた薬師如来像をここに安置したのが始まり。京都の蛸薬師、出雲の一畑薬師と並ぶ日本三薬師の一つだ。薬師橋のたもとに立つ朱塗りの多宝塔や、九谷焼の陶祖・後藤才次郎が寄進した国の重要文化財の陶製金剛童子立像、芭蕉の忘れ杖が納められた収蔵庫があり、申し込めば見学もできる。
杉木立が鬱蒼と茂る、広大な大名墓所。天正15年(1587)、加賀藩祖の前田利家が兄・利久を野田山に埋葬して以来の歴史のある墓所で、利家をはじめ歴代の藩主一族が眠る。利家の4女・豪姫、3代藩主利常の正妻・珠姫の墓もある。
白萩の寺として知られる、大聖寺藩歴代藩主前田家の菩提寺。藩主の謁見の間として造られた書院があり、禅宗様式を取り入れた格調の高い構造で、築山池泉式の庭園が望める。本堂、御霊屋、座禅堂のほか、十六羅漢堂には文政3年(1820)に造られたという像が静かにたたずんでいる。山頂広場には大聖寺藩歴代藩主(初代から14代)の墓が一堂にあり、初代利治の墓の側には、追腹を切った3人の家臣の墓もある。
寛永8年(1631)創建の古刹。眼病治癒に霊験があるとされ、多くの人が訪れる。本尊の不動明王は高さ約8m。白山を開山した、泰澄大師が彫ったものが起源だと伝わる自然石の磨崖仏だ。
明暦3年(1657)、前田利常が前田家の氏神でもある菅原道真を祭神として建てた神社。入母屋造、銅板葺きの本殿、拝殿、神門など江戸時代初期の建築様式を色濃く残す社殿が立ち並ぶ。河川改修により浮島工法が採用され、浮島の景観となる。浮島の宮となった天満宮を囲む輪中堤の上は歩道となっていて、見事な白山眺望とともに散策を楽しむことができる。文化財と河川改修の両立を実践した梯川分水路工事は、全国的にも珍しい公共構造物を巡るインフラツーリズムとしても期待されている。
全国に約3000社を数える白山神社の総本宮。崇神天皇7年(紀元前91)の創建と伝えられる。祭神は白山比め大神[しらやまひめおおかみ]、伊弉諾尊[いざなぎのみこと]、伊弉冉尊[いざなみのみこと]。前田利家をはじめ歴代藩主の信仰が篤く、本殿は10代藩主・重教の寄進によるもの。石川県の有形文化財に指定されている。境内の宝物館では、鎌倉後期の作で国重要文化財の木造狛犬など多くの宝物を展示。※白山比め神社の「め」の正式表記は、漢字1文字で「口に羊」。
市街地から南に約3km、加賀前田家歴代の人々や室生犀星が眠る野田山墓地に隣接する曹洞宗の名刹。2万平方mの境内には山門、仏殿(国指定重要文化財)、坐禅堂など禅宗様式の七堂伽藍が整備され、今も数多くの雲水が修行に励み、厳粛な雰囲気が漂う。坐禅の寺として知られ、毎朝の坐禅では一般にも親切な指導がある。
嘉吉2年(1442)、蓮如上人(1415~1499)の叔父・如乗[にょじょう]が創建。一向一揆の拠点となったところで、山は石、海は池で表現したとされる、蓮如ゆかりの庭園・九山八海[くせんはっかい]がある。
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