
窯元散策路
信楽の長野地区にある窯元が点在する3つの坂道が、「ろくろ坂」「ひいろ壺坂」「窯場坂」と名付けられている。それぞれの道路上には、陶板の道しるべが埋め込んである。また散策路には観光客にわかりやすいようにと案内看板が設けられている。登り窯や無造作に積み上げられた陶器など、伝統が残る町並みやそこで信楽焼を製造する窯元の日常が楽しめる。
- 「信楽駅」から徒歩17分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
信楽の長野地区にある窯元が点在する3つの坂道が、「ろくろ坂」「ひいろ壺坂」「窯場坂」と名付けられている。それぞれの道路上には、陶板の道しるべが埋め込んである。また散策路には観光客にわかりやすいようにと案内看板が設けられている。登り窯や無造作に積み上げられた陶器など、伝統が残る町並みやそこで信楽焼を製造する窯元の日常が楽しめる。
延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
東京や横浜、京都などで呉服などの販売を手がけ、明治時代に全国の長者番付にも名を連ねた豪商・外村宇兵衛の本宅。往時には母屋や納屋、米蔵など10数棟の建物があった。屋敷の一部は取り壊されたが、東近江市によって復元された。
昭和5年(1930)の建築。平成13年(2001)に廃校になったが、アニメ『中二病でも恋したい』に登場する高校のモデルになった学校で、多くのドラマや映画の撮影場所になっている。土・日曜、祝日のみ見学可能。
元亀元年(1570)、約3万の兵力を誇った織田信長・徳川家康連合軍に対して、1万8000人の浅井長政・朝倉景健[かげたけ]連合軍が挑んだ。姉川付近で激闘が繰り広げられ、結果は信長の勝利に終わった。現在の野村橋が架かる姉川一帯は血に染まったといわれ、今も供養塔が残る。多数の戦死者を出した浅井方はこの戦いの後、天正元年(1573)の小谷城落城とともに終焉を迎えることになる。
聖徳太子が建立したと伝わる古刹。平安時代になると、万事吉祥縁結びの祈祷道場として広く信仰を集めた。参道の石段が険しいことで知られ、西国三十三カ所の中でも最大の難所といわれてきたが、現在は車で山頂近くまで行ける。平成5年(1993)に本堂・本尊が焼失し、平成16年(2004)落慶。インド政府の特別許可で輸入した白檀香木で造立した、丈六千手観音座像が現在の本尊だ。寺の奥には、戦国武将佐々木六角氏の居城・観音寺城跡がある。
石田会館の東側にある石田神社には、三成一族と家臣の供養塔をはじめ、三成自筆の和歌や三成の辞世の碑が立つ。
紫香楽宮は、奈良時代中ごろに聖武天皇によって造営された都で、この地で大仏建立の詔が出された。大仏は紫香楽宮では完成せず、奈良の平城宮に還都後、改めて東大寺で着手し完成した。現地には、往時を偲ばせる寺院の礎石が200以上残る。宮殿があった宮町地区は、三方を山に囲まれた地形で、当時と変わらない景色を見ることができる。近くに出土遺物を展示する施設がある。
三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館には、三成の生涯を描いた絵巻パネルや関連パネルを展示。前庭には三成の銅像、堀跡とされる治部池などがある。
長浜の豪商・浅見又蔵が私財を投じて建てた迎賓館。「慶雲館」の名は初代総理大臣の伊藤博文が名づけたと伝わる。庭は2代目又蔵が慶雲館建設25周年を記念して造園、平安神宮の神苑などを手がけた7代目小川治兵衛作で、国の名勝になっている。毎年1月上旬~3月中旬は長浜盆梅展を開催。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。