
穴太衆積みの石垣
延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
- 「坂本比叡山口駅」から徒歩11分/「松ノ馬場駅」から徒歩16分
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延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
文政10年(1827)から天保11年(1840)にかけて建築された近江蚊帳の工場を、明治時代に小学校や役場として改築。平成9年(1997)までは図書館としても利用された。館内には昔の近江八幡の文化や暮らしに関する展示もある。
近江商人とは、近江(現在の滋賀県)に本拠を置いて全国で商業活動をしていた人々のこと。五個荘商人は江戸後期ごろから昭和戦前期にかけて活躍した。商人の数が多いこともあり、明治時代には呉服や麻布などの繊維製品を中心に商いを進めて商業範囲を広げていった。そんな五個荘商人の屋敷群が、五個荘金堂[こんどう]地区にあり、3軒が一般公開され、近江商人の暮らしぶりがうかがえる。
江戸時代、東海道を往来した旅人のために和中散[わちゅうざん]という薬を販売していた、「ぜさい」の店鋪と屋敷を公開。大名や公家の休憩所も兼ねていたという建物で、格調高い玄関や欄間、小堀遠州作と伝わる池泉式庭園(名勝)などが残る。庭園のカキツバタは5月20日頃から、皐月は6月初め頃が見頃(気候により多少変更あり)。
昭和12年(1937)に近江商人古川鉄治郎氏の寄贈、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計で建てられた小学校。当時は「東洋一の小学校」「白亜の教育殿堂」といわれ、平成25年(2013)には国の登録有形文化財に指定。アニメの聖地・映画のロケ地としても愛され、多くの人が訪れている。
天正9年(1581)、信長の命により、イタリア人宣教師オルガンチノが安土城の城下町に創建した日本最初のキリシタン神学校跡。現在では、安土城の外濠沿いに佇む公園として整備されている。
信楽の長野地区にある窯元が点在する3つの坂道が、「ろくろ坂」「ひいろ壺坂」「窯場坂」と名付けられている。それぞれの道路上には、陶板の道しるべが埋め込んである。また散策路には観光客にわかりやすいようにと案内看板が設けられている。登り窯や無造作に積み上げられた陶器など、伝統が残る町並みやそこで信楽焼を製造する窯元の日常が楽しめる。
近江商人をテーマにした小説を発表し、『草いかだ』が昭和10年(1935)の第1回芥川賞候補として選ばれたほか、池谷賞や野間文芸賞を受賞した外村繁氏の生家。父・吉太郎は生粋の近江商人で、東京の日本橋と高田馬場に呉服木綿問屋を開いて活躍した。家族が生活した母屋や蔵が残る。外村繁の直筆原稿や書簡を展示した外村繁文学館も併設している。
八幡山を囲むように築かれた堀。琵琶湖水運にも利用されていた。両岸には今でも白壁土蔵や旧家が立ち並び、当時の面影を色濃く残している。重要伝統的建造物群保存地区、重要文化的景観地区に選定。
甲賀流忍者甲賀五十三家の筆頭格「望月出雲守」の住居として元禄年間に建てられた建物。忍者自身のからくりのある住居として、日本で唯一現存する歴史的に価値のある本物の忍術屋敷。内部には、人間心理をうまくついたからくりが多く施され、甲賀忍術の奥義を記した甲賀流伝書、手裏剣等、さまざまな武器道具類が展示されている。戦乱の世に実在した忍者たち、その真の世界を本物の忍術屋敷で体感してみよう。からくりをあやつったり、鉄製の手裏剣投げどの忍者体験もできる。
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