崇福寺跡
静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝、近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している。
- 「滋賀里駅」から徒歩19分/「南滋賀駅」から徒歩23分
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静寂な比叡山南麓にたたずむ寺跡で、天智天皇が大津京鎮護のため建立したと伝えられている。現在残る礎石などから金堂、講堂、三重塔などが立ち並ぶ大寺院だったことがうかがえる。境内からは、仏舎利を納める舎利容器(国宝、近江神宮所蔵、現在京都国立博物館に寄託中)が出土している。
昭和初期、朝鮮半島や中国大陸などで20数店舗の百貨店を経営し、「百貨店王」と称された三中井一族の本宅。約1000平方mの敷地に木造2階建の本宅や蔵、庭園がある。蔵では小幡人形や全国の土人形を展示している。
赤レンガの塀が100mほど続く池田町の洋風住宅街はレトロな雰囲気。アメリカンコロニアルスタイルと呼ばれる建築様式で、建築家のヴォーリズ夫妻も住んでいた。春と秋に特別公開。ガイドツアー等を実施。ウォーターハウス記念館は2023年春より宿泊施設としても開業した。
三成が生まれた屋敷跡に立つ石田会館には、三成の生涯を描いた絵巻パネルや関連パネルを展示。前庭には三成の銅像、堀跡とされる治部池などがある。
信楽の長野地区にある窯元が点在する3つの坂道が、「ろくろ坂」「ひいろ壺坂」「窯場坂」と名付けられている。それぞれの道路上には、陶板の道しるべが埋め込んである。また散策路には観光客にわかりやすいようにと案内看板が設けられている。登り窯や無造作に積み上げられた陶器など、伝統が残る町並みやそこで信楽焼を製造する窯元の日常が楽しめる。
旧草津川トンネルの南側脇にある石造りの道標。旧東海道と旧中山道との分岐・合流点にあたり、街道を往来する諸国の飛脚仲間らの寄進によって文化13年(1816)に設置された。
江戸時代、東海道を往来した旅人のために和中散[わちゅうざん]という薬を販売していた、「ぜさい」の店鋪と屋敷を公開。大名や公家の休憩所も兼ねていたという建物で、格調高い玄関や欄間、小堀遠州作と伝わる池泉式庭園(名勝)などが残る。庭園のカキツバタは5月20日頃から、皐月は6月初め頃が見頃(気候により多少変更あり)。
近江八幡の町は、天正13年(1585)に豊臣秀次が開いた八幡山城の城下町として築かれたのが始まり。八幡堀をはさんだ北側が武士の居住地域、南側は町人の町。町人が住む地域はさらに西が商業地域、東が職人地域に分けられた。現在の新町通りはかつての商業地域。畳表などを扱う豪商の邸宅だった、旧西川家住宅などが公開されている。邸宅には卯建があがり、家並みの塀越しに松がのぞくなど、情緒ある風景が続く。重要伝統的建造物群保存地区に選定。
天正9年(1581)、信長の命により、イタリア人宣教師オルガンチノが安土城の城下町に創建した日本最初のキリシタン神学校跡。現在では、安土城の外濠沿いに佇む公園として整備されている。
幕末の大老井伊直弼が17歳から32歳までを過ごした屋敷。彦根藩第11代藩主直中の14男として生まれた直弼は、わずか300俵の捨扶持で部屋住の一生を終えるはずだった。埋木舎とは、直弼が花の咲かない埋もれ木と同じ身の上だけれども自分にはなすべき技があるといって名付けた舎号。
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