藤樹書院跡
江戸時代の儒学者で、わが国陽明学の祖である中江藤樹[なかえとうじゅ]の居宅・私塾跡(史跡)。正保5年(1648)に建てられたが、明治時代に焼失し、ほどなく再建された書院が残る。
- 「安曇川駅」から徒歩20分
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江戸時代の儒学者で、わが国陽明学の祖である中江藤樹[なかえとうじゅ]の居宅・私塾跡(史跡)。正保5年(1648)に建てられたが、明治時代に焼失し、ほどなく再建された書院が残る。
文化12年(1815)に初代藤井善助が行商後で始業、「スキー毛糸」の製造等で成功した大商人藤井彦四郎邸。屋敷は敷地総面積8155平方m、建物面積710平方mに及び、特に庭園は彦四郎自身の構想で珍石・名木を配し、琵琶湖を模した池を設け雅趣に富み雄大だ。建物は、豪華な総ヒノキ造りの客殿と彦四郎の生家を移築した質素な本屋等があり、その生き様を感じる事が出来る。また屋敷内では近江商人に関する歴史的資料や生活文化資料も展示している。
昭和12年(1937)に近江商人古川鉄治郎氏の寄贈、建築家ウィリアム・メレル・ヴォーリズ氏の設計で建てられた小学校。当時は「東洋一の小学校」「白亜の教育殿堂」といわれ、平成25年(2013)には国の登録有形文化財に指定。アニメの聖地・映画のロケ地としても愛され、多くの人が訪れている。
石田会館の東側にある石田神社には、三成一族と家臣の供養塔をはじめ、三成自筆の和歌や三成の辞世の碑が立つ。
紫香楽宮は、奈良時代中ごろに聖武天皇によって造営された都で、この地で大仏建立の詔が出された。大仏は紫香楽宮では完成せず、奈良の平城宮に還都後、改めて東大寺で着手し完成した。現地には、往時を偲ばせる寺院の礎石が200以上残る。宮殿があった宮町地区は、三方を山に囲まれた地形で、当時と変わらない景色を見ることができる。近くに出土遺物を展示する施設がある。
賤ケ岳リフトは滋賀県長浜市の自然の絶景が一望できるリフト。京都、大阪、名古屋からも近くアクセス良好で、賤ケ岳リフトで6分登ると、琵琶湖や余呉湖、竹生島や伊吹山が一望できる絶景が待っている。戦国時代の英雄たちが、天下を夢見て駆け抜けた地、湖北。かつて、賤ケ岳の戦いが行われた、羽柴秀吉(後の豊臣秀吉)と柴田勝家の決戦の舞台で、今は賤ケ岳古戦場として歴史ファンがたくさん訪れ、歴史の香りも残る場所になっている。山々に吹く爽やかな風を感じながら、美しい自然の風景と思い出を心に刻もう。
延暦寺と日吉大社の門前として栄えた坂本は、古い民家や神社の石塀などに巧みに積み上げられた石垣が見られる。これを「穴太衆積み」といい、坂本地域に住んだ、比叡山の土木と修繕作業などを行っていた「穴太衆」という石工集団の技によって生まれた技法だ。加工を施さない自然のままの石の面を使い、自然の美しさと堅固さを今も保っている。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
近江八幡の町は、天正13年(1585)に豊臣秀次が開いた八幡山城の城下町として築かれたのが始まり。八幡堀をはさんだ北側が武士の居住地域、南側は町人の町。町人が住む地域はさらに西が商業地域、東が職人地域に分けられた。現在の新町通りはかつての商業地域。畳表などを扱う豪商の邸宅だった、旧西川家住宅などが公開されている。邸宅には卯建があがり、家並みの塀越しに松がのぞくなど、情緒ある風景が続く。重要伝統的建造物群保存地区に選定。
賤ヶ岳の合戦で柴田勝家の焼討ちに遭った観音像が、江戸時代に造られた鞘仏の中で大切に守られてきた。冷水寺に祀られているこの像の歴史を伝えるため、地元の人々が手作りしたのが、胎内仏資料館だ。胎内仏の写真や春日神社の神像写真などをパネルで展示している。
旧草津川トンネルの南側脇にある石造りの道標。旧東海道と旧中山道との分岐・合流点にあたり、街道を往来する諸国の飛脚仲間らの寄進によって文化13年(1816)に設置された。
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