桑折西山城跡
伊達氏14代稙宗[たねむね]が築いた戦国時代の山城。本丸には中心建物や門の跡が表示されている。いまは、土塁、空堀などが残り、国の史跡に指定されている。
- 「桑折駅」から徒歩13分
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伊達氏14代稙宗[たねむね]が築いた戦国時代の山城。本丸には中心建物や門の跡が表示されている。いまは、土塁、空堀などが残り、国の史跡に指定されている。
明治時代を代表する歌人・与謝野晶子は明治44年(1911)に、与謝野鉄寛、佐藤春夫、水上滝太郎らとともに東山温泉を訪れ、歌作などを楽しんだ。竹久夢二の碑の対岸、新瀧橋を渡った「くつろぎ宿 新滝」の敷地内には、「湯の川の第一橋をわがこゆる 秋の夕べのひがしやまかな」の歌碑が建つ。同旅館のロビーには、竹久夢二の絵などとともに掛け軸が展示されている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
飯盛山の石段を上った左手に、19基の小さな墓が一列に並んでいる。戊辰戦争の際に、会津藩の少年たちで編成された白虎隊の白虎士中二番隊。戸の口原合戦場から退却してこの地に辿り着き、自刃した少年たちの墓碑だ。自刃した少年たちのうちの1人、飯沼貞吉は奇跡的に助かり、後にこの悲劇が伝わった。墓から鶴ヶ城方面へ下りたところに自刃の地がある。春と秋の年2回行われる墓前祭では、白虎隊を偲びその霊を慰める剣舞が奉納される。
あづま総合運動公園内にある文化財保存、教育施設。約11万平方mの敷地には、国の重要文化財に指定されている芝居小屋・旧広瀬座や、江戸中期から明治初期頃の茅葺農家など9棟が並ぶ。古民家内には生活用具や農耕用具等の民具も展示され、庭や畑と共に当時の環境を再現している。時節ごとに福島に伝わる年中行事の再現や、わら細工などの体験行事も開催。所要40分。
文治5年(1189)8月、奥州合戦で平泉軍が、源頼朝率いる鎌倉軍を迎え撃つために築いた防御陣地。阿津賀志山の中腹から阿武隈川の旧河道まで約3.2kmにわたる土塁と堀を構築し、地元では二重堀(ふたえぼり)と呼ぶ。近くには源義経が休んだとされる伝承の腰掛松や、南に弁慶ゆかりの硯石山が見え、下二重堀地区の水田には7~8月にかけて中尊寺蓮が防塁のそばでキレイな花を咲かす。
大正時代に東山温泉を訪れた文化人のひとりに竹久夢二がいる。くつろぎ宿 新滝に長く逗留し、芸妓などをモデルにした絵を描き残した。絵はロビーに展示され、宿泊客中心に見ることができるようになっている。湯川にかかった新瀧橋のたもとには、「まてどくらせど 来ぬひとを 宵待草のやるせなさ」の碑が建てられている。ロビー内の展示品は宿泊客以外でも見学することができるが、ひと言声を掛けたい。
鶴ヶ城公園の一角に立つ県指定重要文化財の茅葺き屋根の茶室。千利休[せんのりきゅう]が豊臣秀吉から死を命じられた際、当時の鶴ヶ城城主・蒲生氏郷[がもううじさと]はその子、少庵[しょうあん]を会津にかくまい、千家復興を働きかけたという。少庵が造ったのが、鶴ヶ城本丸内に造られたこの茶室だ。戊辰戦争後に、茶人・森川善兵衛宅に移築・保存されていたが、平成2年(1990)に元の場所に復元された。会津の銘菓が付いた抹茶が楽しめるのでぜひ。
直江兼続は上杉謙信の家臣で、謙信の死後は上杉景勝に仕えた武将。国替えで越後から会津に移って来た景勝から、城の大手口の近くに与えられた屋敷がこの場所で、広さは1町(約109m)四方。江戸時代前期の儒学者・兵学者である山鹿素行が生まれた場所でもあり、大正15年(1926)に建てられた自然石の「山鹿素行誕生地」の碑石の書は、海軍軍人・東郷平八郎の筆によるもの。
会津武家屋敷から東山温泉へ向かう玄関口にあり、会津藩主松平家9代のうち2~9代が葬られている。山の斜面に石段、石畳がつづき、全国的にも珍しい神式の墓石が立ち、国の史跡に指定されている。出掛ける際は歩きなれた靴が望ましい。
江戸時代に豪農・豪商として知られた堀切家の旧屋敷を一般公開しており、約4000平方mにも及ぶ敷地内で、福島県に現存する最古の土蔵などが見学できる。また施設内に源泉かけ流しの足湯があり無料で利用できる。
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