
薬王寺
大同年間(806~10)に徳一大師が創建し、大師自らが薬師如来を刻んで安置したと伝える。歴代藩主のほか、有力大名が帰依した名刹。戊辰戦争で多くの文化財を失ったが、運慶作といわれる木造文殊菩薩騎獅像(重要文化財)は拝観可能。確実に拝観したい場合は事前に要電話予約。
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大同年間(806~10)に徳一大師が創建し、大師自らが薬師如来を刻んで安置したと伝える。歴代藩主のほか、有力大名が帰依した名刹。戊辰戦争で多くの文化財を失ったが、運慶作といわれる木造文殊菩薩騎獅像(重要文化財)は拝観可能。確実に拝観したい場合は事前に要電話予約。
棚倉駅の南西6km。大同2年(807)弘法大師が東北行脚中、悪鬼退治のため護摩壇を築いたのに始まる。渓谷に沿った樹齢100年以上の杉並木を抜けると、130段の石段が見えてくる。登りつめると巨岩の洞窟の中に本尊が安置された霊場がある。
永暦元年(1160)に、国主だった岩城則道の妻徳尼が、亡くなった夫の冥福を祈って建立されたといわれる。浄土庭園に立つ御堂は、平安末期の代表的な建築様式で、四方に曲線を描く屋根が特徴。
相馬家代々の氏神として崇敬されてきた相馬中村神社は、天之御中主神を祭神とする相馬三妙見社の一つであり、中村城郭内西方の小高い丘に位置する。寛永20年(1643)に相馬藩主第18代義胤[よしたね]により建立された後、約20年ごとに都合10回の修理をかさねており、平成29年(2017)の大修理の際には屋根も創建当時のこけら葺に改修された。流造りによる桃山様式の本殿・幣殿・拝殿は、昭和58年(1983)に国の重要文化財に指定されている。
相馬出身の仏師荒嘉明[あらよしあき]が生涯一仏一体を残そうと岩山を切り開き、昭和5年(1930)に建立。30余年の歳月を費やし、一人で彫り続けたが、完成を見ずに他界。現在は四代目の陽之輔氏が父祖の志を受け継いでいる。
新選組が京都守護職の松平容保のもとで市中取締りに尽力したことにちなみ、近藤勇の墓が立つ。墓には彼の遺髪や骨が納められているといわれる。土方歳三が藩主・容保公に願い出、会津藩の手により建立されたものである。隣には土方の戒名を刻んだ慰霊碑が立っている。
屋根が重層になっていて2階建てに見えることから藤倉二階堂[ふじくらにかいどう]とも呼ばれる。室町時代に建てられた建物は、細部まで唐様の手法が取り入れられた禅宗建築で、急勾配の母屋とゆるやかな廂がつくる優美な形状は全国的にも珍しく、国の重要文化財に指定されている。
大同2年(807)に開山されたと伝わる東北の名刹の一つ。興隆時には100以上の末寺があったが16世紀末、天正の兵火で本堂以外を焼失。室町時代初期に再建されたといわれる単層銅板葺きの薬師堂(元講堂)は国の重要文化財だ。平安前期の仏像も数多く残り、本尊の薬師如来、両脇侍の日光菩薩・月光[がっこう]菩薩像は国宝、9体の仏像が重要文化財に指定されている。仏像の拝観は4月~11月15日のみ、要予約。
江戸時代初期に創建され、保科正之[ほしなまさゆき]の代になって現在地に移った。戊辰戦争の戦場となり、東西多数の死者が出た。会津軍145体が埋葬されており、春秋2回の墓前祭が行われる。
会津高野山[こうやさん]とも呼ばれる。16世紀末に建てられた茅葺きの単層入母屋造りの阿弥陀堂が重要文化財に指定されている。死者の遺髪や遺骨の一部を小型の木製の五輪塔に入れて寺に納めて供養する風習が伝わり、国の重要有形民俗文化財に指定されている。祭礼は毎年8月1日から7日までの一週間で、8月5日午前10時から空也念仏踊りが奉納される。
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