
長照寺
慶長8年(1603)に建立した。記念館からすぐの長照寺には、英世夫妻と両親の墓がひっそりとたたずんでいる。7月下旬から9月いっぱいまで門前の蓮田が見事。
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慶長8年(1603)に建立した。記念館からすぐの長照寺には、英世夫妻と両親の墓がひっそりとたたずんでいる。7月下旬から9月いっぱいまで門前の蓮田が見事。
創建は応永29年(1422)の古刹。明治13年(1880)の喜多方大火で旧本堂が消失したので、防火のために蔵造りの本堂を再建した。白と黒のコントラストが美しい。
会津地方は祈りの里とも言われるほど、霊場が多いところ。立木観音(会津坂下町)、鳥追観音(西会津町)と並び、幸運を授け、大往生を遂げさせてくれるという「ころり三観音」の一つ。中田観音は、文永11年(1274)、長者の江川常俊が亡娘の菩提を弔うために十一面観音を建立した。また野口英世の母シカが、息子の火傷の治癒と立身出世を祈願して月参りしたことでも知られる。車で5分のところには、樹齢700年の千歳桜もある。※ペットを抱いての参拝は控えること。
会津三十三観音の第29番札所。磐梯山麓の恵日寺[えにちでら](磐梯町)ができるまで、多くの末寺を持って栄えた名刹だが、伊達政宗の会津攻めで衰えたといわれる。会津では唯一の三重塔や金剛力士像(重要文化財)など貴重な文化財も多い。境内の虎の尾桜は4月下旬が見ごろ。
鎮守神社への参道の途中にある老女の石像。欠けた前歯を出した笑顔、額にしわを寄せ、片膝を立て腰を下ろしたユニークな姿だ。もとは水神だったが、縁結びと縁切りの神様として信仰され、新しいハサミを供えると悪縁切りに、錆びたハサミを供えると縁が切れないといわれる。
今からおよそ千二百年前、南都(奈良)で法相教学を学んだ後に都を離れ、理想の修行の地を求め、はるか東国へと錫を振った稀代の学僧がいた。後世に菩薩・大師とも称され、会津仏教文化の礎を築いた若き日の「徳一」。徳一は霊峰磐梯山を仰ぎ見る山麓に慧日寺を開創し修行の拠点とした。その慧日寺跡の中心伽藍に開祖徳一菩薩の意思を伝える古代儀礼空間「金堂・中門」が1200年の悠久の時を越えて甦った。
会津の初代藩主保科正之を祀る神社。建立は延宝3年(1675)と古く、当時は日光東照宮に並ぶほどの荘厳さを誇ったという。戊辰戦争により焼失したが、明治13年(1880)に再建された。境内には正之を讃える高さ7.6m、重さ約30トンの霊号碑がある。
茅葺き屋根の家が軒を連ねていることで有名な大内宿は、高倉宮以仁王が敗戦した際に潜伏したといわれる村。この村に建つのが高倉神社。高倉宮以仁王が祀られ、毎年7月2日には半夏祭りが開催される。
岩代国(福島県)一宮、会津総鎮守。崇神10年(紀元前88)創建、欽明13年(552)の高田への遷座という由緒をもつ。約2万坪の境内は古代会津の原生林を残し、南限を示す楡[にれ]の樹林や約200種のハナショウブが咲き誇るあやめ苑など壮大な規模を誇る。花が薄墨色から赤に変化することから、薄墨桜(学名アイヅウスズミ)とよばれる桜がご神木となっている。国指定重要無形民俗文化財の御田植祭は昼に行われることから高田の昼田として知られ、三重県伊勢神宮の朝田、愛知県熱田神宮の夕田と並ぶ田植祭の一つとされる。
会津鉄道弥五島[やごしま]駅から大川を越えて山手に入ったところ。鎌倉末期から南北朝の頃(1330年代)の創建といわれる。三間四面に回廊を持った南北朝時代様式を残す本格的な和様建築の観音堂は、国の重要文化財。御蔵入三十三観音の第11番札所ともなっている。
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