智積院
真言宗智山派の総本山。紀州根来寺焼き討ち後、洛東にて再興を図り、徳川家康より、豊臣秀吉が3歳で没した愛児鶴松の菩堤を弔うため建立した祥雲寺を拝領した。その後、度重なる火災に見舞われるも、数々の障壁画や庭園が華麗な桃山文化を今に伝える。名高い長谷川等伯・久蔵一門の描いた楓図・桜図(国宝)は、収蔵庫で見られる。庭園(名勝)は利休好みの庭として知られる、中国廬山をかたどった池泉回遊式庭園。
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真言宗智山派の総本山。紀州根来寺焼き討ち後、洛東にて再興を図り、徳川家康より、豊臣秀吉が3歳で没した愛児鶴松の菩堤を弔うため建立した祥雲寺を拝領した。その後、度重なる火災に見舞われるも、数々の障壁画や庭園が華麗な桃山文化を今に伝える。名高い長谷川等伯・久蔵一門の描いた楓図・桜図(国宝)は、収蔵庫で見られる。庭園(名勝)は利休好みの庭として知られる、中国廬山をかたどった池泉回遊式庭園。
豊臣秀吉の正室、高台院(北政所ねね)が慶長11年(1606)に秀吉の菩提を弔うために開いた寺。創建当初は広大な寺域をもつ壮麗な寺であったが、度重なる火災に遭っている。桃山様式の創建当時の面影を残すのは、開山堂(重要文化財)と、須弥檀や厨子の高台寺蒔絵で名高い霊屋[おたまや](重要文化財)、伏見城から移した茶室傘亭(重要文化財)と時雨亭(重要文化財)、表門(重要文化財)、観月台(重要文化財)など。東山を借景にした小堀遠州作の庭園(名勝・史跡)も見ごたえがある。
京都・東山三十六峰の一つ、華頂山の麓に広がる浄土宗の総本山。法然上人が承安5年(1175)ここに居を構え、「南無阿弥陀仏」と称えるとすべての人が救われるという念仏の教えを説き、生涯を閉じた念仏の聖地だ。7万3000坪の広大な境内には、法然上人の御廟や2000人が一度に参拝できる御影堂、日本最大級の三門など国宝や重要文化財の多くの伽藍が建ち並ぶ。
白河上皇ゆかりの門跡寺院。寛治4年(1090)、白河上皇が熊野三山に参詣した際、先達を務めた増誉[ぞうよ]僧正に与えた寺で、全国の修験者を統括したのが起こり。その後、後白河天皇の皇子が4世として入って以来、門跡寺院となった。宸殿、本堂、書院(重要文化財)など現在の建物は延宝年間(1673~81)の建築。天明・安政の京都御所の火災の際、光格・孝明天皇が仮皇居としたことから史跡に指定。狩野派絵師による170面以上の障壁画や当時の上段の間、御学問所、茶室も残る。拝観は秋の特別公開期間。申し込み不要。
永観堂の名で親しまれ、紅葉の名所としても知られる。平安時代初期、弘法大師の弟子真紹[しんじょう]僧都により創建されたが、後に永観律師が念仏修行の場として、民衆を救った功績から永観堂と呼ばれるようになった。本尊の阿弥陀如来立像(重要文化財)は左後方を振り返る姿で、「みかえり阿弥陀」とも呼ばれる。
全国でも珍しい、女人厄除祈祷のある神社として有名。桓武天皇の勅命により藤原冬嗣が創建したといい、その歴史も大変深い。歴代皇后にも篤く信仰される皇后陛下勅願所である。
三十三間堂の東側にあり、淀殿が文禄3年(1594)に父浅井長政の菩提寺として建立。その後火災に遭い、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人である崇源院が元和7年(1621)に伏見城の旧材を使って再建。本堂廊下の上の天井は「血天井」と呼ばれ、伏見城が落城した時、徳川家康の部下だった鳥居元忠らが自刃した際の血痕が付いた床板を使用したものという。俵屋宗達の描いた杉戸絵(重要文化財)・襖絵(重要文化財)や狩野山楽筆の襖絵も見逃せない。
織田信長が明智光秀に討たれた寺として知られているが、当時は四条西洞院にあった。天文15年(1587)、現在地に移転。境内には信長の供養塔も立つ。
二条城近くにある神社で、豊臣秀吉が、信仰していた稲荷大神を祀ったのが始まり。秀吉の劇的な出世ぶりから、後に後陽成天皇が命名したそう。平成24年(2012)に上京区から移転。
明治18年(1885)創建。明治維新に功績のあった、三條実万[さねつむ]・実美[さねとみ]親子が祭神。萩の名所としても名高く、参道や境内に萩が咲き乱れる9月中~下旬には萩まつりが催される。境内には上田秋成と湯川秀樹の歌碑、有名な京都三名水の一つ「染井」もある。
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