
野宮神社
伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が、潔斎のためにこもった所。クヌギの丸太を組んだ黒木の鳥居や小柴垣の簡素な佇まいの小さな社で、『源氏物語』の「賢木」の巻、謡曲『野宮』などに描かれた当時の様子を彷彿とさせる。今では縁結び、進学の神社として知られるようになった。
- 「トロッコ嵐山駅」から徒歩6分/「嵐山(京福)駅」から徒歩8分
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伊勢神宮の斎宮に選ばれた皇女が、潔斎のためにこもった所。クヌギの丸太を組んだ黒木の鳥居や小柴垣の簡素な佇まいの小さな社で、『源氏物語』の「賢木」の巻、謡曲『野宮』などに描かれた当時の様子を彷彿とさせる。今では縁結び、進学の神社として知られるようになった。
大正14年(1586)御所の鬼門守護であった鳥樞沙摩明王[うすさまみょうおう]を裏寺町四条の大龍寺へ勧請、その後昭和52年(1977)現在の地へ移転。秘仏の鳥沙枢摩明王は北方守護の明王で、その烈火で一切の不浄を焼き尽くし清浄に変えるといわれる。古より安産守護や腰より下の病に霊験あらたかとされ、お手洗いに護符を祀り真言を唱えれば患いなしと崇言されている。鳥樞沙摩堂正面には二代目中村鴈治郎、四代目坂田藤十郎(二代目中村扇雀)らが芸能上達を願って奉納したガタロ(河童)が祀られており、軒下の十二支絵馬目当ての参詣者も多い。
東福寺塔頭のひとつで、明徳元年(1390)創建。重森三玲が復元した九山八海の庭の中央には、熊本藩細川家から贈られた遺愛石がある。この石は寺領五百石を辞退した代わりに拝領したものという。もう一つの臥雲[がうん]の庭も美しい。また、日露戦争中、ロシア人捕虜を収容し、彼らが木や竹で作った楽器なども陳列している。12歳以下の拝観は不可なので注意。
赤穂藩家老・大石内蔵助は、吉良家の目を欺くためこの寺の境内に隠棲した。四十七士の木像や浅野長矩の位牌を祭り、討ち入りで使われた手槍なども保存している。内蔵助の念持仏だったという本尊不動明王像は毎年討ち入りをした12月14日から1月28日まで公開している。内蔵助の広大な屋敷跡全域に咲き誇る桜は圧巻。秋の見事な紅葉は、山科義士まつりの12月14日頃まで境内を鮮やかに彩る。通称「大石寺」。
ゆるい斜面に造られた庭は重森三玲の手による枯山水で、波心庭と呼ばれる。白砂と緑の苔が織り成す優美な曲線がなんとも魅力的。石柱は光明を表し、別名「虹の苔寺」ともいわれる美しい寺院。
世界遺産、醍醐寺総門を入ってすぐ左手に立つ。桃山時代の華麗な障壁画などで彩られた葵の間(重要文化財)や秋草の間(重要文化財)、勅使の間(重要文化財)を通り表書院(国宝)に続く。表書院からは秀吉が「醍醐の花見」の際に自ら設計したという庭園(特別名勝・特別史跡)を眺められる。聚楽第から移した藤戸石などの石組みと刈り込みが美しく、桃山時代を代表する庭園だ。三宝院南側に霊宝館があり、薬師堂の薬師如来像(国宝)などの寺宝を収蔵する。
平安遷都に伴い奈良から移転。今木皇大神[いまきのすめおおかみ]をはじめ、四柱の神を総合し平野皇大神[ひらのすめおおかみ]として祀る。「皇大神」とは、神の中でも最高位を表す語。国内8万以上ある神社の中でも伊勢神宮など数社しかなく、その格式の高さが知られる。本殿(重要文化財)は、比翼春日造という特殊な形式。古くから桜の名所で、他にも四季を通じて様々な花が咲く。4月10日の桜花祭、9月14日の奉灯祭、仲秋の名月祭には盛大に奉納行事が行われる。
秦氏の氏寺。秦河勝[はたのかわかつ]が聖徳太子から賜った仏像を奉じて、一宇を創建したのが起こりと伝わる。宝冠弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)が安置されている。宝髻[ほうけい]弥勒菩薩半跏思惟像(国宝)は、泣いたような表情から泣き弥勒と呼ばれる。ほかにも国宝・重要文化財の仏像を多数所蔵。赤堂と愛称される講堂(重要文化財)は、藤原末期の建築。
平安末期の儒者、清原頼業[よりなり]を祀る。社務所で授かった祈念神石に願い事を祈願し、成就したら祈念神石に御礼の石を添えて奉納する習慣がある。金運向上・良縁成就、受験合格に御利益がある。境内の芸能神社には、芸の上達を祈る現代の芸能人の玉垣が数多く並んでいる。
平安時代、嵯峨天皇の勅願により弘法大師空海が開創。本尊の十一面観世音菩薩は大師自ら彫刻されたと伝わる。西国三十三所第十五番札所、厄除開運の寺として知られ、特に頭痛封じ、頭の観音様として広く信仰を集め、近年ではボケ封じの寺でも有名。紅葉、青もみじの時期の境内は見事だ。
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