
銃眼土塀
指月公園内にあり、菊ケ浜に面した二の丸跡に復元された全長57mの土塀。海からの攻撃に対抗すべく、四角形の銃眼が開けられている。「蓬生ふ銃眼の中海光る」と横光利一が詠んだ銃眼からは、きらめく海と笠山が見える。
- 「玉江駅」から徒歩25分
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指月公園内にあり、菊ケ浜に面した二の丸跡に復元された全長57mの土塀。海からの攻撃に対抗すべく、四角形の銃眼が開けられている。「蓬生ふ銃眼の中海光る」と横光利一が詠んだ銃眼からは、きらめく海と笠山が見える。
慶長9年(1604)に毛利輝元が築いた城。指月山麓の平城[ひらじろ]と山頂の山城[やまじろ]を併せた平山城で、本丸には5層の天守があったが、明治7年(1874)にすべての建物を解体。現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめている。旧本丸跡は指月公園として整備されており、春は600本余の桜の名所として親しまれている。萩でしか見ることのできない珍しい桜、天然記念物ミドリヨシノは必見。
国衙とは、古代律令国家が諸国に置いた役所のこと。律令制の衰退に伴い姿を消していったが、鎌倉時代初期に東大寺再建の造営料国となった周防国の国衙は、現在まで遺構が残されてきた稀有の例。広大な跡地は国史跡に指定、一角に石碑が立つ。
萩藩士として大組(300石)に属していた奥平家の表門は、市の指定有形文化財になっている。建築技法などから19世紀初頭のものとされ、全体の門構えや出格子など往時の形態をよく残している。西に面した表門は寄棟造、桟瓦葺きで、桁行約28m、梁間5mの長い建物。道路に面した西側には4カ所の出格子窓があり、腰部は下見板張り、上部は外大壁。外観のみ見学可。
高杉晋作(号=東行)の墓を守るため、尼となった愛人おうのが住んだ庵。明治17年(1844)に創建され、本尊は白衣観音菩薩。天保10年(1839)、萩の上級武士の家に生まれた高杉晋作は、松陰の義理の弟である久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧といわれた秀才。長州征伐では全軍を指揮して幕府軍を撃破したが、肺結核のため維新を目前に27歳で病死した。庵に隣接して晋作の遺品などを展示する東行記念館が建ち、周囲には国指定史跡の高杉晋作墓や顕彰碑、銅像、文学碑などが点在、花の寺としても知られている。
江戸後期の建築といわれる網元の屋敷。白壁の土蔵造で一部2階建てという、漁師の屋敷らしい豪放な風情を漂わせている。壁には鯨の油が塗られていると伝わる。昭和49年(1974)に国の重要文化財に指定されたが、国の重要建造物の中で漁師の住宅は早川家を含め3軒だけという。内部の見学は要予約。
楊貴妃が漂着したという伝説にちなんで、二尊院周辺を整備した公園。大理石製の楊貴妃像や中国風のあずまやが立つ。
桂太郎は萩出身で、明治政府で陸軍大臣や首相を3回務めた政治家。旧宅は明治42年(1909)、彼が幼少時代を過ごした地に建てられた家だ。和室4室に台所が付いただけの簡素な家で、邸内には藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園がある。
藍場川沿いにある藩政時代の武家屋敷。庭園の池に引き込んだ川の水を、さらに台所と風呂場の「ハトバ」(階段を設けて水に近づけるようにした場所)に流し入れて洗いものや入浴に利用するなど、典型的な藍場川沿いの家の水の利用法が見られる。
明治36年(1903)に長府毛利家14代当主、元敏[もととし]公が建てた邸宅で、明治天皇の行在所[あんざいしょ]としても使用された。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた書院庭園、池泉回遊式庭園、枯山水庭園の3つの庭があり、日本庭園を眺めながら抹茶をいただくこともできる(菓子付き、有料)。
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