中原中也詩碑
中也の代表作の一つである『童謡』の詩碑が立つ。書は中也の自筆原稿から写し取ったものだ。すぐ隣には、湯田温泉で一時期を過ごした種田山頭火のユニークな句の石碑も建てられている。これらの碑が面した錦川通りは、湯田温泉のかつてのメインストリートにあたる。
- 「湯田温泉駅」から徒歩13分
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中也の代表作の一つである『童謡』の詩碑が立つ。書は中也の自筆原稿から写し取ったものだ。すぐ隣には、湯田温泉で一時期を過ごした種田山頭火のユニークな句の石碑も建てられている。これらの碑が面した錦川通りは、湯田温泉のかつてのメインストリートにあたる。
玉木文之進旧宅前の坂を上った、萩市街を眼下に見下ろす高台。家はすでにないが、跡地横に松陰と弟子の金子重輔が下田沖の黒船を眺めている銅像が立つ。近くに、松陰とその一族、高杉晋作、久坂玄瑞らの墓がある。
平成22年(2010)10月に、萩市では初めての高杉晋作の銅像が登場。以来、多くの観光客、幕末ファンが立ち寄る公園となっている。
明治~大正時代、下関は日本の西の玄関口として大いに賑わった。当時の面影を今に伝えるのが、唐戸交差点周辺に残る旧秋田商会ビルと下関南部町郵便局の2つの洋館だ。
高杉晋作(号=東行)の墓を守るため、尼となった愛人おうのが住んだ庵。明治17年(1844)に創建され、本尊は白衣観音菩薩。天保10年(1839)、萩の上級武士の家に生まれた高杉晋作は、松陰の義理の弟である久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧といわれた秀才。長州征伐では全軍を指揮して幕府軍を撃破したが、肺結核のため維新を目前に27歳で病死した。庵に隣接して晋作の遺品などを展示する東行記念館が建ち、周囲には国指定史跡の高杉晋作墓や顕彰碑、銅像、文学碑などが点在、花の寺としても知られている。
明治36年(1903)に長府毛利家14代当主、元敏[もととし]公が建てた邸宅で、明治天皇の行在所[あんざいしょ]としても使用された。武家屋敷造りの重厚な母屋と白壁に囲まれた書院庭園、池泉回遊式庭園、枯山水庭園の3つの庭があり、日本庭園を眺めながら抹茶をいただくこともできる(菓子付き、有料)。
かつて源平の壇之浦の戦いが行われた古戦場で、園内には源義経・平知盛像と、幕末に長州藩が外国船を砲撃した長州砲のレプリカが置かれている。関門海峡で最も狭い幅約700mの早鞆[はやとも]の瀬戸沿いにあり、関門橋や最速約10ノットという潮流、行き交う船などを間近に眺められる。
くじら資料館裏手の清月庵境内にある、鯨の胎児を葬った墓。元禄5年(1692)、通鯨組[かよいくじらぐみ]の漁師たちによって建てられた。通の漁師たちにとって鯨漁は生死を賭けた戦いだったため、鯨に対する思いは真摯で、海を見ずに逝った胎児の鯨は丁重に供養されたという。近くの向岸寺には、捕殺された鯨の戒名を記した「鯨位牌」や「過去帳」がある。くじら資料館には古式捕鯨用具(重要有形民俗文化財)をはじめ、新旧捕鯨船や捕鯨の歴史資料を展示。国指定史跡である。
明治10年(1877)に開業し、地元出身の歴代首相や大臣経験者や文人などが多く利用、山口の迎賓館とよばれた元料亭・祇園菜香亭を移築し再現した施設。
菊屋家は毛利輝元に従って山口から移ってきた藩の御用商人で、大年寄格でもあった家。江戸初期に建てられたという主屋は広い座敷をもち、幕府からの使者が泊まる本陣として使われた。5470平方mという広い敷地内にはなまこ壁の蔵が立ち並び、主屋、本蔵、金蔵、米蔵、釜場などが国の重要文化財に指定されている。各部屋には藩主からの拝領品や古書、民具、衣装など約500点を展示。家の西側のなまこ壁が美しい小路は、菊屋横丁とよばれ「日本の名道100選」に選定されている。
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