
其中庵
昭和7~13年(1932~1938)まで種田山頭火が住んでいた草庵。山頭火はこの間にも各地を旅したが、放浪の人生にあって、最も長く結んでいた庵が、生まれ故郷の防府に近い其中庵だった。跡地に立つ現在の建物は、平成4年(1992)に復元されたもので、四畳半と三畳二間からなる間取りは、当時の記録に基づき再現。室内に置かれた袈裟や火鉢などからも、質素な暮らしぶりがうかがえる。
- 「新山口駅」から徒歩16分/「周防下郷駅」から徒歩23分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
昭和7~13年(1932~1938)まで種田山頭火が住んでいた草庵。山頭火はこの間にも各地を旅したが、放浪の人生にあって、最も長く結んでいた庵が、生まれ故郷の防府に近い其中庵だった。跡地に立つ現在の建物は、平成4年(1992)に復元されたもので、四畳半と三畳二間からなる間取りは、当時の記録に基づき再現。室内に置かれた袈裟や火鉢などからも、質素な暮らしぶりがうかがえる。
中也の代表作の一つである『童謡』の詩碑が立つ。書は中也の自筆原稿から写し取ったものだ。すぐ隣には、湯田温泉で一時期を過ごした種田山頭火のユニークな句の石碑も建てられている。これらの碑が面した錦川通りは、湯田温泉のかつてのメインストリートにあたる。
明治10年(1877)に開業し、地元出身の歴代首相や大臣経験者や文人などが多く利用、山口の迎賓館とよばれた元料亭・祇園菜香亭を移築し再現した施設。
大正5年(1916)に建てられた、旧山口県庁舎と旧県会議事堂を公開した施設。武田五一らの設計による大正建築の粋を凝らした後期ルネッサンス様式の建築で、国の重要文化財に指定。玄関ホールや正庁会議室、議員控室の天井など、随所に凝ったデザインが見られる。議場、知事室などが見学できる。所要40分。
長州藩13代毛利敬親[もうりたかちか]が幕末の有事に備え、藩政の中心地を萩から山口へ移転。藩主住居の表門として石門が完成したが、第1次長州征討の際に破却された。明治維新後、改めて建設された藩庁門が山口県庁に現存。県指定重要文化財である。
大内氏28代教弘[のりひろ]をたよって山口へ来た画聖・雪舟が一時期過ごした庵の跡。国宝に指定されている雪舟の水墨画『四季山水図』(防府の毛利博物館所蔵)はここで描かれたといわれている。現在の建物は明治37年(1904)に郷土史家たちが古材を集めて復元したもの。
わが国の初代内閣総理大臣・伊藤博文が、9歳の時に山口県東部の光市から萩市へ移り住んだのち、14歳で伊藤家に入家し、本拠とした家(史跡)。博文は約13年間をこの家で過ごし、17歳の時、松下村塾に通って吉田松陰の教えを受けた。隣接地には伊藤が東京郊外に建てた別邸が移築・公開されている。
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
現山陽小野田市の厚狭[あさ]に領地を持っていた厚狭毛利氏の屋敷の一部で、安政3年(1856)に建てられた入母屋造本瓦葺きの長屋。梁間5m、桁行51.5mの長大な建物は、萩に現存する武家屋敷の中でも最大の規模を誇り、当時の姿をよく伝える遺構として重要文化財に指定されている。室内は座敷や中間部屋が横一直線上にいくつも連なり壮観。内部には、毛利家の姫が使った駕籠や道具類などを展示している。
玉木文之進旧宅前の坂を上った、萩市街を眼下に見下ろす高台。家はすでにないが、跡地横に松陰と弟子の金子重輔が下田沖の黒船を眺めている銅像が立つ。近くに、松陰とその一族、高杉晋作、久坂玄瑞らの墓がある。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。