其中庵
昭和7~13年(1932~1938)まで種田山頭火が住んでいた草庵。山頭火はこの間にも各地を旅したが、放浪の人生にあって、最も長く結んでいた庵が、生まれ故郷の防府に近い其中庵だった。跡地に立つ現在の建物は、平成4年(1992)に復元されたもので、四畳半と三畳二間からなる間取りは、当時の記録に基づき再現。室内に置かれた袈裟や火鉢などからも、質素な暮らしぶりがうかがえる。
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昭和7~13年(1932~1938)まで種田山頭火が住んでいた草庵。山頭火はこの間にも各地を旅したが、放浪の人生にあって、最も長く結んでいた庵が、生まれ故郷の防府に近い其中庵だった。跡地に立つ現在の建物は、平成4年(1992)に復元されたもので、四畳半と三畳二間からなる間取りは、当時の記録に基づき再現。室内に置かれた袈裟や火鉢などからも、質素な暮らしぶりがうかがえる。
桂太郎は萩出身で、明治政府で陸軍大臣や首相を3回務めた政治家。旧宅は明治42年(1909)、彼が幼少時代を過ごした地に建てられた家だ。和室4室に台所が付いただけの簡素な家で、邸内には藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園がある。
江戸屋横町にある、木戸孝允(桂小五郎)の生家。当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために患者用と来客用の2つの玄関がある。孝允は天保4年(1833)に誕生し、約20年間をここで過ごした。誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見られる。国指定史跡。江戸屋横町のある旧町人地は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の一部となっている。
藩主の御座船[ござぶね]を格納した倉(史跡)。玄武岩を積んだ壁に本瓦葺きの屋根をのせた、梁間8.8m、桁行27m、高さ8.8mの堂々たる建物だ。現在は川から約130m離れているが、かつてはこのあたりまで松本川の河畔だったという。
大正4年(1915)に建てられた、下関市指定有形文化財。日本遺産「関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶~」の構成文化財のひとつ。外観は洋風だが2・3階は書院造りの和室で、屋上には日本庭園や茶室があるというユニークな造り(屋上庭園は非公開)。
玉木文之進旧宅前の坂を上った、萩市街を眼下に見下ろす高台。家はすでにないが、跡地横に松陰と弟子の金子重輔が下田沖の黒船を眺めている銅像が立つ。近くに、松陰とその一族、高杉晋作、久坂玄瑞らの墓がある。
慶長9年(1604)に毛利輝元が築いた城。指月山麓の平城[ひらじろ]と山頂の山城[やまじろ]を併せた平山城で、本丸には5層の天守があったが、明治7年(1874)にすべての建物を解体。現在は石垣と堀の一部が昔の姿をとどめている。旧本丸跡は指月公園として整備されており、春は600本余の桜の名所として親しまれている。萩でしか見ることのできない珍しい桜、天然記念物ミドリヨシノは必見。
藍場川沿いにある藩政時代の武家屋敷。庭園の池に引き込んだ川の水を、さらに台所と風呂場の「ハトバ」(階段を設けて水に近づけるようにした場所)に流し入れて洗いものや入浴に利用するなど、典型的な藍場川沿いの家の水の利用法が見られる。
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
敵を迷わせ、あるいは追いつめやすいように工夫して造られた鍵曲。別名「追廻し筋」ともよばれ、道が鍵の手に曲がり、左右を高い土塀で囲むなど見通しが悪くなっているのが特徴だ。藩政時代に多くの重臣たちの邸宅があった堀内や平安古などで見られる。一帯は重要伝統的建造物群保存地区に指定されており、近くに国の重要文化財の口羽家住宅がある堀内エリアの鍵曲は、道がカラー舗装されているため、往時を彷彿とさせる。
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