下関南部町郵便局
唐戸洋館のひとつ。レンガ造りの外壁は厚さ60cmもあり、どっしりとした風格。明治33年(1900)に建てられた市内最古の西洋建築で、国内の現役郵便局舎最古の建物でもある(国登録有形文化財)。施設内には資料を展示。カフェを併設したギャラリーもある。入口には懐かしい円筒型ポストが置かれているので、旅の思い出にハガキを出してみては。夜はライトアップ(日没~22時)も行われる。日本遺産の構成文化財にも選ばれている。
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唐戸洋館のひとつ。レンガ造りの外壁は厚さ60cmもあり、どっしりとした風格。明治33年(1900)に建てられた市内最古の西洋建築で、国内の現役郵便局舎最古の建物でもある(国登録有形文化財)。施設内には資料を展示。カフェを併設したギャラリーもある。入口には懐かしい円筒型ポストが置かれているので、旅の思い出にハガキを出してみては。夜はライトアップ(日没~22時)も行われる。日本遺産の構成文化財にも選ばれている。
大正9年(1920)に三井銀行下関支店として竣工し、歴史的価値から山口県の有形文化財に指定されている。平成20年(2008)11月からは、銀行史資料や山口県の伝統工芸品などの展示棟と併せて「やまぎん史料館」として、一般公開されている。
伊藤家は参勤交代時の大名宿となる本陣を務めた旧家。慶応3年(1867)龍馬とお龍は伊藤家の一室を借り受けて「自然堂」と号し、短いながらも安寧な日々を過ごした。
萩藩の大組士佐世彦七の長男として天保5年(1834)に生まれ、24歳の時に松下村塾へ入門した前原一誠の旧宅。尊皇攘夷運動に参加した前原は後に萩の乱を起こしたが、鎮圧され悲運の最期を遂げた。旧宅は当時のままで、現在も住居として使われているので見学は外観のみ。墓は近くの弘法寺にある。
その傑出した行動力から「幕末のカリスマ」と称される高杉晋作は、萩藩大組士・高杉小忠太の長男としてここで生まれた。当時の旧宅の一部が現存し、屋敷の前には晋作が浸かったという産湯の井戸もある。晋作自作の歌を刻んだ句碑や自筆の書の複写、当時の茶道具などのゆかりの品を展示している。
大正4年(1915)に建てられた、下関市指定有形文化財。日本遺産「関門“ノスタルジック”海峡~時の停車場、近代化の記憶~」の構成文化財のひとつ。外観は洋風だが2・3階は書院造りの和室で、屋上には日本庭園や茶室があるというユニークな造り(屋上庭園は非公開)。
城下町の名残りを色濃くとどめる通り。なかでも代々藩医を務めた菅家の重厚な長屋門は、太い格子の武者窓や38mもの長い練塀など、建築当時の形を完全に残した貴重な建物だ。
長州藩13代毛利敬親[もうりたかちか]が幕末の有事に備え、藩政の中心地を萩から山口へ移転。藩主住居の表門として石門が完成したが、第1次長州征討の際に破却された。明治維新後、改めて建設された藩庁門が山口県庁に現存。県指定重要文化財である。
菊ヶ浜の東にある高さ3m、幅12m、長さ50mほどの土塁。文久3年(1863)5月の攘夷決定の日、長州藩は下関の馬関[ばかん]砲台から外国船を砲撃したが、大反撃を受けて敗退。地元への報復を恐れた藩は、菊ヶ浜に土塁を築いた。現在残るのはその一部。築塁には留守を守っていた多くの女性が参加したため「女台場」とよばれている。
指月公園内にあり、もと三の丸にあった13代藩主毛利敬親の別邸・花江御殿の茶室「自在庵」を移したもの。入母屋造、茅葺きの風雅な建物で、敬親は維新の志士たちとここで密議を交わしたといわれている。
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