木戸孝允旧宅
江戸屋横町にある、木戸孝允(桂小五郎)の生家。当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために患者用と来客用の2つの玄関がある。孝允は天保4年(1833)に誕生し、約20年間をここで過ごした。誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見られる。国指定史跡。江戸屋横町のある旧町人地は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の一部となっている。
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江戸屋横町にある、木戸孝允(桂小五郎)の生家。当時としては珍しい木造2階建て桟瓦葺きで、14室もの部屋があり、父が藩医を務めていたために患者用と来客用の2つの玄関がある。孝允は天保4年(1833)に誕生し、約20年間をここで過ごした。誕生の間や勉強部屋などがあり、勉強部屋では後年、名筆家として知られた孝允の少年時代の習字も見られる。国指定史跡。江戸屋横町のある旧町人地は、世界遺産「明治日本の産業革命遺産」の構成資産の一つ「萩城下町」の一部となっている。
萩出身で総理大臣も務めた田中義一の別邸。遺品を展示する母屋や増築された五松閣を公開。元々は江戸時代の毛利筑前下屋敷で、明治以降は士族救済で夏みかん栽培を勧めた萩藩士小幡高政の屋敷だった。
高杉晋作(号=東行)の墓を守るため、尼となった愛人おうのが住んだ庵。明治17年(1844)に創建され、本尊は白衣観音菩薩。天保10年(1839)、萩の上級武士の家に生まれた高杉晋作は、松陰の義理の弟である久坂玄瑞とともに松下村塾の双璧といわれた秀才。長州征伐では全軍を指揮して幕府軍を撃破したが、肺結核のため維新を目前に27歳で病死した。庵に隣接して晋作の遺品などを展示する東行記念館が建ち、周囲には国指定史跡の高杉晋作墓や顕彰碑、銅像、文学碑などが点在、花の寺としても知られている。
港の警備、見張りのほか、越荷会所であつかう積荷の検査や税金の徴収を行っていた番所で、寛永9年(1632)に長島南西端の四代に置かれていたが、番所の老朽化と上関港の発展に伴い、正徳元年(1711)に朝鮮通信使のために建てた仮番所を公儀に願出、永久番所として四代から上関に移した。平成8年(1996)、高台である当時熊毛南高等学校上関分校(現在は廃校)の運動場横に移築された。山口県指定有形文化財である。
指月公園内にあり、菊ヶ浜に面した二の丸跡に復元された全長57mの土塀。海からの攻撃に対抗すべく、四角形の銃眼が開けられている。「蓬生ふ銃眼の中海光る」と横光利一が詠んだ銃眼からは、きらめく海と笠山が見える。
高杉晋作没後90年を記念して造られた備前焼の陶像が関門海峡を見わたすように建っており、桜の名所としても知られている。車で近くまで行けるが、長くて急な階段を登りきって眺めると感動も増す。
大内氏28代教弘[のりひろ]をたよって山口へ来た画聖・雪舟が一時期過ごした庵の跡。国宝に指定されている雪舟の水墨画『四季山水図』(防府の毛利博物館所蔵)はここで描かれたといわれている。現在の建物は明治37年(1904)に郷土史家たちが古材を集めて復元したもの。
松陰神社境内にあり、吉田松陰の叔父、玉木文之進[たまきぶんのしん]が開いた私塾。もともとは松陰の実家の物置だった建物で、和室2間に土間が付いただけの簡素なもの。松陰が指導にあたったのは、謹慎していた幽囚室から通算2年余りだが久坂玄端[くさかげんずい]、高杉晋作、伊藤博文など、明治維新の原動力となった逸材を多く輩出した。
桂太郎は萩出身で、明治政府で陸軍大臣や首相を3回務めた政治家。旧宅は明治42年(1909)、彼が幼少時代を過ごした地に建てられた家だ。和室4室に台所が付いただけの簡素な家で、邸内には藍場川の水を引き込んだ流水式池泉庭園がある。
楊貴妃が漂着したという伝説にちなんで、二尊院周辺を整備した公園。大理石製の楊貴妃像や中国風のあずまやが立つ。
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