
横笛の恋塚
平重盛の家臣・滝口入道[たきぐちにゅうどう]を慕い、悲恋の内に没した女官横笛を弔う塚。
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平重盛の家臣・滝口入道[たきぐちにゅうどう]を慕い、悲恋の内に没した女官横笛を弔う塚。
会津川河口付近にかかる田辺大橋のたもとにある。田辺領主・安藤家が居城とした錦水城(田辺城)の水門で、会津川への出入門として利用されていた。現在はその石垣だけが残されている。
仏教によって国を鎮めるために、聖武[しょうむ]天皇の勅命により一国に一カ所建立したのが国分寺。天平勝宝[てんぴょうしょうほう]8年(756)、紀伊にも国分僧寺と尼寺が建立され、現在の紀の川市側に国分僧寺、岩出市側に国分尼寺と推定される西国分廃寺があった。その後元慶[がんぎょう]3年(879)に焼失した。現在、塔跡の礎石などが保存されており、歴史公園として開放されている。
高さわずか50cmの像で、平安時代の花山法皇の旅姿を偲んで彫られた石仏。記念撮影スポットとしても人気で、その愛らしい姿が訪れる人の心を癒してくれる。近くには、のどかな田園風景を一望できる東屋も。
詩人の野口雨情が生前に愛した地を記念して造られた、紀州にゆかりのある童謡をモチーフにした公園。園内には『まりと殿様』や『鳩ぽっぽ』などのブロンズ像や歌碑がある。
高野山にある徳川家康・秀忠親子の霊を祭る2基の霊屋[たまや](重要文化財)。向かって右側が家康、左側が秀忠。3代将軍家光が寛永20年(1643)に建立。いずれも約6m四方の一重宝形[ひとえほうぎょう]造で、銅瓦葺の屋根の頂に露盤を載せ、周囲に縁と勾欄[こうらん]を配している。正面の向拝[こうはい]は唐破風[からはふ]。家康は寅、秀忠は兎の干支の彫刻がある。内部は非公開。壁面・天井・厨子にいたるまで、金銀の蒔絵や極彩色の装飾金具など絢爛豪華な飾りが施されている。
燈明崎にある。天平勝宝4年(754)、吉備真備らが唐からの帰途に海上で暴風雨に遭い、紀伊国牟漏崎に漂着したとの記述が『続日本紀』にみえる。さらに文政年間(1818~1830)の文献には、吉備真備の一族がこの地に定住し、太地の村を開いたとも記されている。記述に現れる牟漏崎とは現在の燈明崎といわれており、記念碑が建てられている。
日本最古の石造灯台。イギリス人が設計と建設にあたり、明治3年(1870)に初点灯。現在は自動点灯の無人灯台のため、内部は非公開になっている。スイセンの名所としても知られ、12~2月になると花が咲き、周囲はさわやかな香りで包まれる。かつて常駐していたイギリス人技師が植えたものと言われている。
故郷を愛し続けた作家・詩人の佐藤春夫は、望郷詩人と称された。この『秋刀魚[さんま]の歌』は、大正10年(1921)に発表した代表作。「あわれ秋風よ 情あらば伝えてよ……さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて、さんまを食ふはその男がふる里のならひなり」と刻まれている。親友である作家谷崎潤一郎の夫人であった千代と再婚したときの心情を歌ったものだ。碑は旧国鉄紀勢本線開通の昭和34年(1959)に建立された。
平安時代に16歳で養父母を失い、親の菩提を弔うために黒髪を売って奥の院の燈籠堂に献燈した孝女お照の供養碑。
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