
天誅倉
文久3年(1863)に尊皇攘夷を訴え挙兵した天誅組の志士8人が、再挙を計って小又川へ逃れたが、同年9月22日に自首し、幽閉された倉。復元された茅葺屋根に白壁の倉の内部には、天誅組のリーダー水郡[にごり]長雄が血書した辞世の歌なども残っている。
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
文久3年(1863)に尊皇攘夷を訴え挙兵した天誅組の志士8人が、再挙を計って小又川へ逃れたが、同年9月22日に自首し、幽閉された倉。復元された茅葺屋根に白壁の倉の内部には、天誅組のリーダー水郡[にごり]長雄が血書した辞世の歌なども残っている。
日本最古の石造灯台。イギリス人が設計と建設にあたり、明治3年(1870)に初点灯。現在は自動点灯の無人灯台のため、内部は非公開になっている。スイセンの名所としても知られ、12~2月になると花が咲き、周囲はさわやかな香りで包まれる。かつて常駐していたイギリス人技師が植えたものと言われている。
中世以来の名家で、江戸時代には紀州藩主頼宣[よりのぶ]から地士に処遇され、寛永7年(1630)以来名手の大庄屋だった妹背家の住居(重要文化財・史跡)。旧大和街道に面し、参勤交代や鷹狩りなどのときに藩主が宿泊した本陣で、人々からは名手本陣とよばれていた。建物は江戸時代に建てられたもので、御座の間にある入母屋造の母屋や米倉など保存状態がよい。
昭和32年(1957)2月、日ノ御崎沖で火災を起こした徳島県の機帆船の乗組員を、デンマークの貨客船エレン・マークス号の機関長ヨハネス・クヌッセンが救助しようとした際、荒天で波にのまれて水死した。この遺徳を偲んで建てられた胸像が、日の岬パークの駐車場近くにある。
会津川河口付近にかかる田辺大橋のたもとにある。田辺領主・安藤家が居城とした錦水城(田辺城)の水門で、会津川への出入門として利用されていた。現在はその石垣だけが残されている。
中辺路から来ると、本宮大社の2つ手前にある王子で熊野九十九王子の一つ。熊野古道を歩いてきた参詣者が、ここに来て、初めて遠くに熊野本宮大社を眺め伏し拝んだことから、この名が付いた。現在でも東南に大斎原が望める。石祠のそばには、平安時代の歌人、和泉式部[いずみしきぶ]供養塔が立つ。
和歌山城は天正13年(1585)、豊臣秀吉が弟秀長に命じて築城し、藤堂高虎らが普請した。桑山、浅野の時代を経て元和5年(1619)、徳川家康の10男・頼宣が入城。明治の廃藩置県まで徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城として使われた。岡口門(重要文化財)と紀州の青石を使った野面積みの石垣などは当時のもの。戦後復元された天守閣は刀や鎧等の展示室を備え、紀ノ川の眺めがすばらしい。西之丸庭園は名勝に指定されており、紅葉が見事な事から紅葉渓庭園とも呼ばれる。
詩人の野口雨情が生前に愛した地を記念して造られた、紀州にゆかりのある童謡をモチーフにした公園。園内には『まりと殿様』や『鳩ぽっぽ』などのブロンズ像や歌碑がある。
新宮駅の近くにある、中国風の楼門がひときわ鮮やかな公園。園内には、徐福の墓や顕彰碑、徐福の重臣たち7人を祭った七塚の碑などがある。徐福とは、中国の歴史書『史記』によれば、今から約2200年前、秦の始皇帝に方土(仙術者)として仕えた人。皇帝の命を受け不老不死の霊薬を探しに、東方に浮かぶ蓬莱の島に向かって出航した。熊野で不老長寿の木といわれる天台烏薬を見つけたが、気候温暖で風光明媚な土地柄を気に入り、熊野を永住の地とした。土地を開拓し、農耕、漁法、紙すきなどの技術を伝えたといわれる。毎年8月12・13日には徐福を供養する万燈祭が行われ、花火等で賑わう。
東浜船着場跡には港の名残を伝える石灯籠。築160年の古民家にて、塗りの器で提供される喫茶、軽食を楽しむことができる。また、漆器や雑貨を購入可能。2階スペースはギャラリー、体験教室など。黒江カレーやスタッフの気まま定食1100円、ドリンク440円~。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。