 
													クヌッセン胸像
昭和32年(1957)2月、日ノ御崎沖で火災を起こした徳島県の機帆船の乗組員を、デンマークの貨客船エレン・マークス号の機関長ヨハネス・クヌッセンが救助しようとした際、荒天で波にのまれて水死した。この遺徳を偲んで建てられた胸像が、日の岬パークの駐車場近くにある。
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													昭和32年(1957)2月、日ノ御崎沖で火災を起こした徳島県の機帆船の乗組員を、デンマークの貨客船エレン・マークス号の機関長ヨハネス・クヌッセンが救助しようとした際、荒天で波にのまれて水死した。この遺徳を偲んで建てられた胸像が、日の岬パークの駐車場近くにある。
 
													和歌山城は天正13年(1585)、豊臣秀吉が弟秀長に命じて築城し、藤堂高虎らが普請した。桑山、浅野の時代を経て元和5年(1619)、徳川家康の10男・頼宣が入城。明治の廃藩置県まで徳川御三家の一つ、紀州徳川家の居城として使われた。岡口門(重要文化財)と紀州の青石を使った野面積みの石垣などは当時のもの。戦後復元された天守閣は刀や鎧等の展示室を備え、紀ノ川の眺めがすばらしい。西之丸庭園は名勝に指定されており、紅葉が見事な事から紅葉渓庭園とも呼ばれる。
 
													吉宗が紀州藩主だった正徳2年(1712)に設置された鐘楼。2階部分に吊り下げられた鐘は、大坂夏の陣で豊臣方が使用した大砲を利用して鋳造したものと伝えられている。
 
													東浜船着場跡には港の名残を伝える石灯籠。築160年の古民家にて、塗りの器で提供される喫茶、軽食を楽しむことができる。また、漆器や雑貨を購入可能。2階スペースはギャラリー、体験教室など。黒江カレーやスタッフの気まま定食1100円、ドリンク440円~。
 
													玉津島神社向かい側の橋。紀州藩主徳川治宝が嘉永4年(1851)に造らせた当時としては珍しい石組みのアーチ橋。徳川家が紀州東照宮に参拝する際におなり橋として渡っていた。
 
													熊野霊場の入口とされ、九十九王子の中でも格式が高いとされた「五体王子」のひとつ。後鳥羽上皇や貴族が熊野詣に訪れた際には、ここで体を浄め、歌会などを行ったといわれている。滝尻王子の奥からは険しい山道が続く。
 
													故郷を愛し続けた作家・詩人の佐藤春夫は、望郷詩人と称された。この『秋刀魚[さんま]の歌』は、大正10年(1921)に発表した代表作。「あわれ秋風よ 情あらば伝えてよ……さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて、さんまを食ふはその男がふる里のならひなり」と刻まれている。親友である作家谷崎潤一郎の夫人であった千代と再婚したときの心情を歌ったものだ。碑は旧国鉄紀勢本線開通の昭和34年(1959)に建立された。
 
													湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区は醤油醸造業で栄えた歴史が今もなお残っている。醸造関連の町家や土蔵などがよく残っており、平成18年(2006)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成29年(2017)には醤油醸造のストーリーが日本遺産に認定された。
 
													東くめは日本で初めて口語体による童謡を作詞した人。作曲家の滝廉太郎とのコンビで、『鳩ぽっぽ』『お正月』など不朽の名作を多数残した。新宮の名誉市民であり、新宮駅前に『鳩ぽっぽ』の歌碑が建てられている。
 
													熊野川を見下ろす高台にある公園。新宮城(丹鶴城)は寛永10年(1633)に完成し、浅野氏2代、水野氏10代と続いた三万五千石の居城だった。名前は、築城前に源為義の娘である丹鶴姫が開いた東仙寺があったことから。太平洋をよく見渡せるため沖見城とも呼ばれた。明治時代に城はとり壊されたが、表面を美しく加工した切石で積む算木積み[さんぎづみ]の石垣が残っている。熊野川沿いの水ノ手からは水野氏の経済活動を示す炭納屋群が発見されている。国史跡「新宮城跡附水野家墓所」。
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