西行堂と妻娘の墓
西行とその妻娘を偲んで建てられ、古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされる。昭和61年(1986)の再建。堂の下に妻娘の墓がある。
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
西行とその妻娘を偲んで建てられ、古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされる。昭和61年(1986)の再建。堂の下に妻娘の墓がある。
平安時代に16歳で養父母を失い、親の菩提を弔うために黒髪を売って奥の院の燈籠堂に献燈した孝女お照の供養碑。
故郷を愛し続けた作家・詩人の佐藤春夫は、望郷詩人と称された。この『秋刀魚[さんま]の歌』は、大正10年(1921)に発表した代表作。「あわれ秋風よ 情あらば伝えてよ……さんま、さんま そが上に青き蜜柑の酸をしたたらせて、さんまを食ふはその男がふる里のならひなり」と刻まれている。親友である作家谷崎潤一郎の夫人であった千代と再婚したときの心情を歌ったものだ。碑は旧国鉄紀勢本線開通の昭和34年(1959)に建立された。
詩人の野口雨情が生前に愛した地を記念して造られた、紀州にゆかりのある童謡をモチーフにした公園。園内には『まりと殿様』や『鳩ぽっぽ』などのブロンズ像や歌碑がある。
高野山にある徳川家康・秀忠親子の霊を祭る2基の霊屋[たまや](重要文化財)。向かって右側が家康、左側が秀忠。3代将軍家光が寛永20年(1643)に建立。いずれも約6m四方の一重宝形[ひとえほうぎょう]造で、銅瓦葺の屋根の頂に露盤を載せ、周囲に縁と勾欄[こうらん]を配している。正面の向拝[こうはい]は唐破風[からはふ]。家康は寅、秀忠は兎の干支の彫刻がある。内部は非公開。壁面・天井・厨子にいたるまで、金銀の蒔絵や極彩色の装飾金具など絢爛豪華な飾りが施されている。
文久3年(1863)に尊皇攘夷を訴え挙兵した天誅組の志士8人が、再挙を計って小又川へ逃れたが、同年9月22日に自首し、幽閉された倉。復元された茅葺屋根に白壁の倉の内部には、天誅組のリーダー水郡[にごり]長雄が血書した辞世の歌なども残っている。
日本最古の石造灯台。イギリス人が設計と建設にあたり、明治3年(1870)に初点灯。現在は自動点灯の無人灯台のため、内部は非公開になっている。スイセンの名所としても知られ、12~2月になると花が咲き、周囲はさわやかな香りで包まれる。かつて常駐していたイギリス人技師が植えたものと言われている。
東くめは日本で初めて口語体による童謡を作詞した人。作曲家の滝廉太郎とのコンビで、『鳩ぽっぽ』『お正月』など不朽の名作を多数残した。新宮の名誉市民であり、新宮駅前に『鳩ぽっぽ』の歌碑が建てられている。
新宮駅の近くにある、中国風の楼門がひときわ鮮やかな公園。園内には、徐福の墓や顕彰碑、徐福の重臣たち7人を祭った七塚の碑などがある。徐福とは、中国の歴史書『史記』によれば、今から約2200年前、秦の始皇帝に方土(仙術者)として仕えた人。皇帝の命を受け不老不死の霊薬を探しに、東方に浮かぶ蓬莱の島に向かって出航した。熊野で不老長寿の木といわれる天台烏薬を見つけたが、気候温暖で風光明媚な土地柄を気に入り、熊野を永住の地とした。土地を開拓し、農耕、漁法、紙すきなどの技術を伝えたといわれる。毎年8月12・13日には徐福を供養する万燈祭が行われ、花火等で賑わう。
熊野川を見下ろす高台にある公園。新宮城(丹鶴城)は寛永10年(1633)に完成し、浅野氏2代、水野氏10代と続いた三万五千石の居城だった。名前は、築城前に源為義の娘である丹鶴姫が開いた東仙寺があったことから。太平洋をよく見渡せるため沖見城とも呼ばれた。明治時代に城はとり壊されたが、表面を美しく加工した切石で積む算木積み[さんぎづみ]の石垣が残っている。熊野川沿いの水ノ手からは水野氏の経済活動を示す炭納屋群が発見されている。国史跡「新宮城跡附水野家墓所」。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。