
旧名手本陣妹背家住宅
中世以来の名家で、江戸時代には紀州藩主頼宣[よりのぶ]から地士に処遇され、寛永7年(1630)以来名手の大庄屋だった妹背家の住居(重要文化財・史跡)。旧大和街道に面し、参勤交代や鷹狩りなどのときに藩主が宿泊した本陣で、人々からは名手本陣とよばれていた。建物は江戸時代に建てられたもので、御座の間にある入母屋造の母屋や米倉など保存状態がよい。
- 「名手駅」から徒歩7分
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中世以来の名家で、江戸時代には紀州藩主頼宣[よりのぶ]から地士に処遇され、寛永7年(1630)以来名手の大庄屋だった妹背家の住居(重要文化財・史跡)。旧大和街道に面し、参勤交代や鷹狩りなどのときに藩主が宿泊した本陣で、人々からは名手本陣とよばれていた。建物は江戸時代に建てられたもので、御座の間にある入母屋造の母屋や米倉など保存状態がよい。
明治時代に創業した、JR高野口駅前にある木造3階建の元旅館。内部は旅館を営業していたころの姿が残され、高野山参詣の人でにぎわった当時をしのぶことができる。
西行とその妻娘を偲んで建てられ、古くから高野山の僧や一般のお参りが多かったとされる。昭和61年(1986)の再建。堂の下に妻娘の墓がある。
東浜船着場跡には港の名残を伝える石灯籠。築160年の古民家にて、塗りの器で提供される喫茶、軽食を楽しむことができる。また、漆器や雑貨を購入可能。2階スペースはギャラリー、体験教室など。黒江カレーやスタッフの気まま定食1100円、ドリンク440円~。
湯浅町湯浅伝統的建造物群保存地区は醤油醸造業で栄えた歴史が今もなお残っている。醸造関連の町家や土蔵などがよく残っており、平成18年(2006)には国の重要伝統的建造物群保存地区に選定され、平成29年(2017)には醤油醸造のストーリーが日本遺産に認定された。
文久3年(1863)に尊皇攘夷を訴え挙兵した天誅組の志士8人が、再挙を計って小又川へ逃れたが、同年9月22日に自首し、幽閉された倉。復元された茅葺屋根に白壁の倉の内部には、天誅組のリーダー水郡[にごり]長雄が血書した辞世の歌なども残っている。
日高町原谷地区と広川町井関地区をつなぐ熊野古道にある峠道。かつては難所の一つとされたが、今では散策路が整備されている。熊野古道に現存するもののなかで最も長い石畳道が残り、健脚者向きのハイキングコースとしても親しまれている。
中辺路から来ると、本宮大社の2つ手前にある王子で熊野九十九王子の一つ。熊野古道を歩いてきた参詣者が、ここに来て、初めて遠くに熊野本宮大社を眺め伏し拝んだことから、この名が付いた。現在でも東南に大斎原が望める。石祠のそばには、平安時代の歌人、和泉式部[いずみしきぶ]供養塔が立つ。
安政元年(1854)に発生した安政南海地震の際、広村に帰郷していた濱口梧陵は火をつけた稲むらを目印に村人を避難させた。梧陵の行動に基づいた話は、昭和12年(1937)から約10年間、防災教材「稲むらの火」として小学校の国語の教科書に掲載されていた。津波被害を受けた村を見た梧陵は、津波に備えるために私財を投じて防潮堤を完成させた。梧陵が築いた広村堤防により、広川町は昭和の南海地震による津波被害から免れることができた。
昭和32年(1957)2月、日ノ御崎沖で火災を起こした徳島県の機帆船の乗組員を、デンマークの貨客船エレン・マークス号の機関長ヨハネス・クヌッセンが救助しようとした際、荒天で波にのまれて水死した。この遺徳を偲んで建てられた胸像が、日の岬パークの駐車場近くにある。
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