
遠江国分寺跡
奈良時代に全国に造られた国分寺の一つ。昭和26年(1951)に発掘され、東大寺を模した七堂伽藍を備えていたことがわかった。東西180m、南北253mの跡地には、金堂や講堂の礎石が点在し、史跡公園として開放されている。
- 「磐田駅」から徒歩19分
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奈良時代に全国に造られた国分寺の一つ。昭和26年(1951)に発掘され、東大寺を模した七堂伽藍を備えていたことがわかった。東西180m、南北253mの跡地には、金堂や講堂の礎石が点在し、史跡公園として開放されている。
元亀元年(1570)、徳川家康が遠州攻略の拠点に築城。徳川の治世はここから始まったともいえ、その後代々の譜代大名が居城としたことから別名「出世城」とも呼ばれる。城跡は浜松城公園として整備。築城当時の姿を残す石垣の上には、昭和33年(1958)再建の天守閣がそびえる。天守閣内部では鎧や刀剣などを展示。最上階の展望回廊は浜松市内が一望できるビュースポットだ。桜の名所でもある。
慶長6年(1601)に徳川家康によって創設されたと言われる関所で、現在の建物は残存する資料をもとに平成元年度(1989)に再建されたもの。本番所などには等身大の人形が並び、当時の様子を再現している。展示棟である姫様館では、江戸期の駕籠や手形などの資料が展示されている。団体料金は20人以上100円、80人以上50円。
明治8年(1875)に建てられた、現存する日本最古の木造擬洋風小学校校舎。大正11年(1922)までは小学校として、その後は裁縫女学校、病院などとして使われ、現在は教育資料館になっている。館内には、明治から大正にかけて使われた教科書や石盤、オルガンなどの他、民具や農具を展示。等身大の人形を置き、授業風景も再現されている。所要30分。
JR金谷駅の南にある東海道の難所として知られた金谷峠。文政年間(1818~29)、幕府の命令によって、近隣の村人が滑り止めの石を敷き詰めた歴史を持つ。平成3年(1991)には「町民一人一石運動」によって、消滅しかけた金谷坂の石畳430mが復元され、深々とした木立の中、当時を偲びながら風情ある旧東海道を歩けるようになった。また、JR金谷駅西方の旧菊川宿近くにある菊川坂でも江戸後期の石畳が発掘され、平成13年(2001)には町内外の人々の手によって611mの石畳が復元されている。
大名、公家、幕府役人などが宿泊、休憩する施設を本陣といい、脇本陣とはその補助的旅舎。普段は旅籠屋を営み、大通行などで本陣の利用が重なった時に本陣の代わりをつとめた。この脇本陣は、旧東海道で唯一残された遺構を復元したもので、旧脇本陣「茗荷屋」の上段の間があった書院棟が残されている。舞坂宿は江戸から30番目の宿場で、東西交通を結ぶ今切渡しの渡船場であった。
佐鳴湖の東岸にある国指定史跡。約3000~4000年前の縄文時代の遺跡で、住居跡や墓、貝塚が見つかっており、現在は史跡公園として整備されている。
ちいさなちいさなぬくもりの森は、独自の建築スタイルを追求する建築家佐々木茂良が「こんな場所があったら」と、コツコツ創りあげてきた場所。中世ヨーロッパの小さな村に迷い込んだかのようで、まるでおとぎの国にいるような穏やかで不思議な空間。高い木々に囲まれた小さな森の中に点在する店舗は、ボトルチーズケーキ・カフェ、レストラン、ジェラートショップ、雑貨ショップ。日常を離れた夢のひとときを味わいに訪れたい。
城ケ崎ピクニカルコースの途中にある、幕末に領主の水野氏が海防のために大砲を据えた場所。現在は跡地のみ残る。
二俣城は、天竜川と旧二俣川で三方を囲まれた天然の要害の地にある。丘陵の上を階段状に曲輪が設けられ、主要な施設が連なる。城の中心である本丸や二の丸には、土塁や石垣がめぐらされ、本丸の最奥には天守台がみられる。城郭の基本的な姿は、今川氏や徳川氏によって形づくられたとみられるが、石垣や天守は豊臣方の勢力下にある堀尾氏の領有時代の天正18年(1590)~慶長5年(1600)に築かれたものと考えられる。家康の長男信康が自害させられた悲劇の城として広く知られている。
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