辰巳用水
寛永9年(1632)に3代藩主利常が板屋兵四郎に命じて造らせた水路。当時の金沢はたび重なる火災から城下を守るための防火用水や、水の便が悪かった金沢城内への引水が必要だった。そこで城から約11km離れた犀川上流の上辰巳町から兼六園まで水路を造り、当時の技術としては画期的な逆サイフォン方式で兼六園から金沢城へと水を導いたのだ。今も石引通りの歩道沿いなどで、水路の一部を見ることができる。
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寛永9年(1632)に3代藩主利常が板屋兵四郎に命じて造らせた水路。当時の金沢はたび重なる火災から城下を守るための防火用水や、水の便が悪かった金沢城内への引水が必要だった。そこで城から約11km離れた犀川上流の上辰巳町から兼六園まで水路を造り、当時の技術としては画期的な逆サイフォン方式で兼六園から金沢城へと水を導いたのだ。今も石引通りの歩道沿いなどで、水路の一部を見ることができる。
金沢出身の文豪、泉鏡花の代表作『義血侠血』には浅野川が登場。梅ノ橋のそばにはヒロインの水芸人「滝の白糸」をイメージした像がある。センサーに手をかざすと水芸を始める。
加賀藩の農村支配において重要な役割を果たした十村の屋敷。茅葺の表門は富樫家より拝領と伝わる。嘉永6年(1853)に能登を巡見した13代藩主前田斉泰の本陣をつとめ、主屋の内装は藩主を迎えた頃のすがたを留めている。加賀藩農政を支えた豪農の屋敷として、その面影を偲ぶことができる。国指定重要文化財。
歌舞伎『勧進帳』の舞台として有名。源頼朝の追っ手を逃れて奥州に逃げ延びる義経一行は、ここで守護の富樫の尋問に合う。芝居を打って白紙の勧進帳を読み上げ、義経を打擲[ちょうちゃく]して主人の身を守ろうとする弁慶。それに心打たれた富樫は一行を通したという。源義経・弁慶・富樫左衛門尉の像が立ち、近くには勧進帳ものがたり館や安宅住吉神社、休憩・飲食施設を備えた安宅ビューテラスもある。
卯辰山中腹の木立の中にある。幼い頃に母を亡くした鏡花が、よく遊んだ卯辰山を眺めながら詠んだ「はゝこひし夕山桜峰の松」という句が刻まれている。
壇ノ浦の合戦後、能登に流され、生き延びた平時忠の子・時国はこの地に住みつき豪農となった。以来、時国家は現当主まで25代と続く家柄だ。現存する家屋は天保2年(1831)から28年かけて築かれた茅葺きの入母屋造。唐破風の玄関や、金の格天井がある御前の間、揚羽蝶の定紋が入った襖など随所に武家を彷彿とさせる格式の高さを感じさせる。江戸末期の作庭という庭園も見ておきたい。
大正11年(1922)、芸妓の稽古場や事務所として建てられた瓦葺の建物。平成15年(2003)7月1日に国登録有形文化財に指定された。寄棟造り、下見板張りの洋風建築は、大正ロマンを偲ばせる。
江戸時代の加賀藩地域を中心とした民家を展示する野外博物館。町家・武家ゾーンと農家ゾーンから成り、国指定重要文化財の商家・旧松下家住宅や旧鯖波本陣石倉家住宅をはじめ、国指定重要有形民俗文化財の紙漉き農家・旧園田家住宅など、農家や商家、武家門など総計10棟が各地から移築されている。実際に家の中に上がって当時の暮らしを体感できる。
文政3年(1820)に町割を改めお茶屋を集めたのが始まり。伝統と格式を誇り、文人や裕福な商人たちの社交場で、芸妓たちも琴・謡曲・茶の湯など、京都の祇園に並ぶ洗練された芸を身に付けていた。石畳の通りの両側には細かい木虫籠と呼ばれる格子のはまった家々が軒を連ね、情緒たっぷり。お茶屋は一見[いちげん]さんはお断りだが、夕方になると三味線や太鼓の音が静かに流れてくる。国の重要伝統的建造物群保存地区に指定。
玉泉湖畔に立つかや茸き小屋で平成22年(2010)に建て直し、平成27年(2015)にかやを葺き替えた。かつて江戸時代には氷室小屋に雪を貯蔵し、夏、将軍家に献上していた。今でも大寒に雪を詰め、6月末にそれを取り出す氷室開きが行われている。
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