
良寛堂
良寛の生家である橘屋の屋敷跡の中央に建つ。橘屋は、代々出雲崎で名主を務めてきた家柄で、宝暦8年(1758)この地に生まれ、光照寺に入るまでの18年間を過ごした。良寛の母の国、佐渡島を背景にして海に浮かんで見え、素朴で優美な建物。大正11年(1922)築。
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良寛の生家である橘屋の屋敷跡の中央に建つ。橘屋は、代々出雲崎で名主を務めてきた家柄で、宝暦8年(1758)この地に生まれ、光照寺に入るまでの18年間を過ごした。良寛の母の国、佐渡島を背景にして海に浮かんで見え、素朴で優美な建物。大正11年(1922)築。
元禄2年(1689)7月、俳人松尾芭蕉が奥の細道行脚の途中、この地に立ち寄り、「荒海や佐渡によこたふ天河」の句を残した。芭蕉筆の銀河の序を刻んだ句碑が建つ。
江戸初期に造られた新発田藩主溝口[みぞぐち]家の下屋敷で、昭和21年(1946)に北方文化博物館の管理となり、全体を修復し「清水園」として公開。国の名勝に指定された約1万5000平方mの園内には、草書体の「水」の字を象った大泉池を配した池泉廻遊式庭園に、寄棟造の数寄屋建築の書院や5つの茶室、足軽長屋、堀部安兵衛伝承館などが立つ。書院の簡素で装飾の少ない建物に、幕府への政治的配慮がなされた当時の下屋敷の面影を偲ぶことができる。所要50分。
鎮守府将軍・平維茂が建立し、後に僧の永源が永正16年(1519)に再興したと伝わる県内最古の木造建築物の一つ。内部に武士らの落書きが残る。近くには樹齢1400年、幹の周囲19.31mの国指定天然記念物の将軍杉がある。
新発田城は、別名「あやめ城」ともよばれており、表門と旧二の丸隅櫓は国の重要文化財に指定されている。平成16年(2004)に復元された、3匹の鯱を配する三階櫓、「切込はぎ」という手法で組まれた美しい石垣、北国の城特有のなまこ壁など、全国にも珍しい特徴を備えた名城だ。表門前には、新発田で生を受けた赤穂四十七士の1人「堀部安兵衛」の像が立つ。
元和2年(1616)、徳川幕府の天領となった出雲崎は、越後で最初に代官所が置かれた地。代官所は何度か移転し、文化5年(1808)にこの場所に移され、明治維新を迎えることになる。敗走した代官に替わり官軍が民政局を設けた頃には、周囲に堀を巡らせた、御門、長屋、本陣、牢屋などを有する広大な屋敷であったが、現在は往時を物語る老松や稲荷神社が残されているのみ。
岩室温泉街からほど近い、標高234.5mの天神山には直江兼続の実弟、大国実頼(与七実頼)が最後に城主を務めた天神山城の跡が今も残る。城址登り口までは丸小山公園から登山道で20分、舗装された林道で40分ほど。さらに登ると物見台、土塁・石塁や瓢箪池、武者溜りなどがほぼ完全な形で残り、頂上の本丸跡からは絶景を楽しむことができる。
延享3年(1746)に幕府直轄領として設置された水原代官所を、資料をもとに建築様式にこだわり再現した建物。館内は上ノ間、御用人部屋、御学問所など19の部屋に分かれ、代官所の役割や当時の様子などが紹介されている。所要30分。
明治~昭和にかけて新潟を代表した大商家、齋藤家の明治期の邸宅の一部を白山公園内に移築・再建したもの。明治40年(1907)頃の建築と伝わる国登録有形文化財で、格調高い奥座敷や居室のほか、露地庭と一体となった茶室、床の間など、贅を尽くした細工も見どころ。10~16時には、水琴窟を施した日本庭園を眺めながら、菓子と抹茶やコーヒーも楽しめる。所要30分。
海岸沿いに黒松林が広がる西海岸公園に程近い地にある昭和8年(1933)建築の旧日本銀行支店長役宅を、芸術文化施設として保存・公開。上品な意匠が見られる建物で往時の雰囲気を楽しめる。年間を通して蔵のギャラリーやお屋敷空間を生かした、さまざまなジャンルの企画展やイベントも開催。応接間や庭園の見える和室を利用した「喫茶 茶寮六華」ではゆっくりとコーヒーも楽しめる。
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