羽茂城跡
羽茂地頭本間氏によって築かれた戦国時代の山城。羽茂平野を一望できる丘陵上にあり、地形を利用した土塁や空掘等の遺構があり、新潟県史跡に指定されている。昭和53年(1978)に北ノ城地区から、建物跡と見られる柱穴列、城内鍛冶場跡等が見つかった。現在城郭主要部には散策路が整備され、市民の憩いの場として利用されている。
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羽茂地頭本間氏によって築かれた戦国時代の山城。羽茂平野を一望できる丘陵上にあり、地形を利用した土塁や空掘等の遺構があり、新潟県史跡に指定されている。昭和53年(1978)に北ノ城地区から、建物跡と見られる柱穴列、城内鍛冶場跡等が見つかった。現在城郭主要部には散策路が整備され、市民の憩いの場として利用されている。
明治43年(1910)、旧日本陸軍高田第13師団長・長岡外史中将によって建設。平成3年(1991)まで、自衛隊高田駐屯基地の幹部宿舎として使用されていた。市内に残る数少ない明治期の洋風木造建築物として、市が現在の場所に移築・復原。1階は洋間、2階は和室の和洋折衷になっていて、外装・内装から家具調度品まで建築当初に近い形で復原されている。
慶長8年(1603)、佐渡金山を管理する目的で大久保長安によって建てられた佐渡奉行所。焼失と再建を繰り返したが、当時の文献や絵図をもとに平成7年(1995)から復原を開始。勝場では実際に金の製錬工程の一部が体験できる。
中島家には、江戸後期の仏教彫刻家・木喰 (もくじき)が彫った明見尊が残る。高さ約40cmの木彫りの像。
上杉謙信公の一生や春日山城の古絵図などを展示。約15分のビデオも上映され、春日山城の歴史を知ることができる。隣接する春日山城史跡広場(入園自由)は国の史跡に指定され、中世の山城から近世の城への展開を示す貴重な遺構。延長約1.2kmの総構の監物堀[けんもつぼり]をはじめ逆三角形の薬研堀、東城砦[とうじょうとりで]の番小屋などが復元されている。所要30分。
尾瀬沼の発見者である尾瀬三郎中納言は、左大臣藤原経房の次男という高貴な生まれ。今から800年ほど前、時の権力者・平清盛と一人の女性をめぐる争いに敗れ、都を追われこの地に流れ着いた。都を去る時に皇妃から渡された虚空蔵菩薩像を生涯肌身離さなかったという。この悲恋の物語は現在まで語り継がれ、銀山平の船着場を見下ろす高台に、烏帽子を被り菩薩を抱えた三郎の像が立っている。毎年7月下旬、多くの燈籠が流される供養祭も開催。
松平忠輝公が築いた高田城跡を利用した都市公園。4月上旬は桜、7月中旬~8月中旬には外堀一面にハスの花が咲く。園内の高田城三重櫓、石垣ではなく土塁を巡らせた外堀などは、高田城図間尺[けんじゃく]などに基づいて再現。三重櫓内の展示室には高田城略年譜、甲冑や陣笠などを展示している。所要20分。
小木の宿根木集落は、佐渡金山で繁栄し江戸時代に千石船と船大工の里として栄えたところ。1haほどの土地に板壁の民家が密集し、民家間の石畳の小路も当時の面影をよく残していて国の重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。100棟を超える伝統的な建物は、その多くが主屋、納屋、土蔵などから成り、ほとんどが総二階造り。外観は質素だが屋内は漆溜塗りなど豪華な仕上げの家もあり、公開されている回船主の清九郎と船大工職人の金子屋、三角形の三角家など、いずれも大工の技術を活かして建てられ、独特の形をしている。
奈良時代に諸国に建てられた国分寺の一つで、享禄2年(1529)に焼失した。現在は史跡公園として整備され、金堂や回廊、南大門などの礎石が残る。
日本百名城にも数えられている春日山城跡は、堀や郭跡など山城の特徴を今もなお残している。春日山神社の脇から山道を登っていくこと約20分、上杉謙信公・景勝公が居を構えた春日山城の本丸跡に到着。標高180mにある本丸跡からは上越市街、頸城平野、日本海など豊かな上越の自然が一望できて爽快だ。
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