
石岡の陣屋門
府中藩は元禄13年(1700)に初代水戸藩主徳川頼房の五男・松平頼隆が府中藩主となって以来、水戸徳川家の分家として特に御連枝[ごれんし]とよばれ、格式高かったという。この陣屋門は、江戸屋敷建造の際の余材を用いて建てられたもので、本柱の上に妻破風造の屋根が付き、両脇の控え柱の上にも小さな屋根を付けた高麗門と呼ばれる様式。かつては石岡小学校の校門として使われていた。平成26年(2014)11月、解体修理し石岡市民会館駐車場へ移築された。
- 「石岡駅」から徒歩16分
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府中藩は元禄13年(1700)に初代水戸藩主徳川頼房の五男・松平頼隆が府中藩主となって以来、水戸徳川家の分家として特に御連枝[ごれんし]とよばれ、格式高かったという。この陣屋門は、江戸屋敷建造の際の余材を用いて建てられたもので、本柱の上に妻破風造の屋根が付き、両脇の控え柱の上にも小さな屋根を付けた高麗門と呼ばれる様式。かつては石岡小学校の校門として使われていた。平成26年(2014)11月、解体修理し石岡市民会館駐車場へ移築された。
水戸黄門の名でお馴染みの水戸2代藩主・徳川光圀。JR水戸駅北口をはじめ、市内各地に光圀公の銅像が点在しているが、なかでもユニークなのがこちら。銅像の隣に大きな印籠があり、上部のボタンを押すと合成音で春・夏・秋・冬の季節に応じて話しかけてくれる。夜は作動しないので注意。
陶芸のみならず料理や書、絵画、篆刻[てんこく]などでもすばらしい業績を残した希有の芸術家・北大路魯山人[きたおおじろさんじん]の鎌倉の旧宅を移築。風情あふれる庭園の中に江戸時代初期の茅葺き屋根の古民家が立つ。邸内には自作の陶板を張った風呂場など、趣向を凝らした造作に魯山人の才を見てとれる。
鉄製大砲を鋳造する溶鉄炉があった地。沖に出没する外国船に備え、水戸藩第9代藩主斉昭[なりあき]の命で造られた。現在は復元された反射炉及びレンガを焼いた登り窯が残るのみだが、往時はほかに、役人詰所、大砲方、細工所などがあった。
平成元年(1989)に茨城県有形文化財に指定。安永2年(1773)築の寄棟造の主屋、前蔵、衣裳蔵などからなる。主屋の荘厳な茅葺屋根や北を流れる関根川から水を引く回遊式庭園が見どころ。
結城駅の北東の高台に位置する城跡歴史公園は、南北朝動乱時代に築城されたと伝えられる結城城の跡地。結城家は室町時代には関東八屋形の一つに数えられ、その後、天正19年(1591)には徳川家康の次男秀康を養子として迎え、慶長6年(1601)の越前福井への国替えまで関東の雄として栄えた。その後、江戸時代の中期(1700年)から幕末まで、この地を治めた徳川譜代の水野家の居城となった。現在、公園として利用されており、春にはさくら祭りが開催される。
江戸時代の地元の裕福な農家を移築した、かすみがうら市歴史博物館の付属施設。茅葺きの母屋と穀物倉庫だった板倉の2棟からなる。
長塚節の生家。短歌にめざめ、正岡子規の門をたたいた節は、伊藤左千夫とともに「アララギ」を創刊。後に農民文学の名作、小説『土』で小説家としても名をなす。現在は施設損傷の為、外観の見学のみ。
明治37年(1904)に建てられた旧制土浦中学校(現土浦第一高等学校)の本館で、国の重要文化財に指定されている。ゴシック様式の建物で、直線的な正面の構成や左右対称をなす塔、入口の三連アーチなど、力強く美しいフォルムに特徴がある。設計は当時東京帝国大学を卒業したての青年建築家・駒杵勤治。普段見学ができるのは外観のみ。建物は校内にあり、一般公開は第2土曜日のみ(都合により公開変更あり、要問合せ)。
縄文時代後・晩期の大規模貝塚の遺跡公園と考古資料館からなる面積約5万平方mの史跡博物館。自然に囲まれた貝塚広場には貝塚の成り立ちがわかる貝層断面展示施設や、復元堅穴住居などがある。考古資料館では、貝塚や縄文人の暮らしのほか、土浦市内出土考古資料を展示。企画展や体験学習講座も開催されている。見学所要約1時間。
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