
往馬大社
正式には往馬坐伊古麻都比古神社といい、石垣の壇上に7棟の春日造檜皮葺きの社殿が立ち並ぶ。社殿は明治の再建だが、古くは生駒山を御神体とした神社で火の神として崇敬を集め、毎年体育の日の土・日曜の例祭「火祭り」は、松明を持った男たちが石段を競って駆け降りる勇壮な祭り。
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正式には往馬坐伊古麻都比古神社といい、石垣の壇上に7棟の春日造檜皮葺きの社殿が立ち並ぶ。社殿は明治の再建だが、古くは生駒山を御神体とした神社で火の神として崇敬を集め、毎年体育の日の土・日曜の例祭「火祭り」は、松明を持った男たちが石段を競って駆け降りる勇壮な祭り。
東室は法隆寺西院回廊の東側の国宝の僧坊。天平以前の創建とみられ、当初は正面4間・側面18間だったが、保安2年(1121)の改造で南3分の1を改め、聖徳太子を祭る聖霊院とした。現在の建物は、鎌倉時代後期の弘安7年(1284)にやや規模を大きくして新造されたもので国宝。切妻造の前面に付く吹放しの庇[ひさし]、蔀戸[しとみど]など、平安時代の寝殿造の対屋[たいのや]形式を連想させる。内部には3つの厨子があり、中央の厨子には聖徳太子坐像(国宝)を安置。3月下旬の「お会式」で厨子が開帳される。
當麻寺最古の塔頭で、創建は役行者[えんのぎょうじゃ]とされる。中将姫が剃髪した坊とも伝えられ、中将姫導きの観音という十一面観音を祭る。後西天皇の御幸の間(重要文化財)や茶室(重要文化財)があり、香藕園[こうぐうえん](名勝・史跡)は、石州作の枯淡な美をみせている。150枚もの日本画に飾られた絵天井の下で、仏画を描き写す「写仏」や、中将姫が書写した「称讃浄土経」の「写経」(料金:1500円、筆・用紙付き)も体験できる。
野見宿禰を祭神とする、穴師坐兵主神社の摂社。相撲発祥の地。『日本書紀』によれば、大和国の當麻蹶速と出雲国の野見宿禰が日本で始めての相撲をとり、勝った野見宿禰には當麻蹶速の領地が与えられた。
広い敷地に荘厳な雰囲気を漂わせる神殿が建つ。「かんろだい」を芯に礼拝場が設けられ、北にある教祖殿や祖霊殿とは約800mの長い回廊でつながっている。天保9年(1838)に教祖中山みきによって開かれ、親神天理王命の望む「陽気ぐらし」を目指している。
宇陀川沿いに立つ小寺。役行者[えんのぎょうじゃ]が開き、弘法大師が天長元年(824)に堂を建立したと伝わる。対岸の岩壁に線刻された弥勒大磨崖仏(史跡)は高さ11.5mで国内最大級の磨崖仏。鎌倉時代に笠置寺[かさぎでら]の磨崖仏を模して刻まれたといわれる。本堂安置の地蔵菩薩立像(重要文化財)は「身代わり地蔵」と呼ばれ、無実の娘を火あぶりの刑から救ったという伝説が残る。
興福寺南円堂から猿沢池への石段を下りる途中の右手に、ひっそりと佇んでいる。目立たない場所にあるためか、訪れる人も少ないが、繊細な美しさがある塔だ。康治2年(1143)、崇徳天皇の中宮皇嘉門院が創建、現在の塔は鎌倉初期に藤原様式で再建されたもので、高さ約19m。毎年7月7日に特別開扉される。
養老2年(718)、舎人親王が『日本書紀』の完成と自身の42歳の厄除けを祈願して開いたとされる。日本最古の厄除け霊場といわれ、本尊木造千手観音立像が「厄除け観音」として信仰を集める。境内には本堂(重要文化財)、三重塔、行者堂、七福神堂、阿弥陀堂などが立ち並ぶ。また花畑(バラ)が5月15日から6月5日まで公開される。7月からカサブランカが見頃。
法隆寺夢殿の北側に立つ建物。鎌倉期の再建で、正面7間のうち東3間が聖徳太子が2歳の春に合掌した掌中から出現したという舎利を安置する舎利殿。中央1間は伝法堂への通路で、西3間が太子の一代記を描いた障壁画をおさめる絵殿。現在、絵殿東面(現在の相殿)に祀られていた太子像(重要文化財)は、大宝蔵院百済観音堂に安置されている。
役行者が大峯山を開く前に修行したといわれる修験道の霊場で、元山上[もとさんじょう]とも呼ばれる。境内には本堂や観音堂、宝塔、十三重塔などの堂塔が立ち並び、五尊磨崖仏やハラミ地蔵、貝ふき地蔵という名の地蔵が崖に彫られた行場めぐりもできる。宿坊もある。
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