
大黒寺
薩摩藩主の島津義弘の希望により、出世大黒天を祀ったことが始まり。境内には寺田屋事件の九烈士の墓碑や、金運清水と呼ばれる井戸がある。
- 「丹波橋駅」から徒歩8分/「近鉄丹波橋駅」から徒歩9分
ジャンル/こだわり条件等を指定して検索できます。
薩摩藩主の島津義弘の希望により、出世大黒天を祀ったことが始まり。境内には寺田屋事件の九烈士の墓碑や、金運清水と呼ばれる井戸がある。
平安時代を代表する女流歌人、小野小町の住居跡といわれる寺院。遅咲きの梅の名所としても名高く、楚々とした花に彩られる境内は、美貌で知られた歌人ゆかりの場所にふさわしい。寝殿造の本堂には阿弥陀如来坐像(重要文化財)が安置されている。また小町に寄せられた恋文を下張りにしたという文張[ふみはり]地蔵、片膝を立てて座る卒塔婆[そとば]小町坐像も祀る。小野小町が化粧に使ったという「化粧井」や、小町に届いた1000通もの恋文を埋めたという文塚が残る。
菅原道真公が逝去後31年目に当たる承平4年(934)に、朱雀天皇の勅命により、誕生の地に創建された最初の天満宮。これより先、平安遷都とともに文章博士として恒武天皇に随行された道真公の祖父清公卿は遣唐使の命を受けて唐へ渡航中暴風に遭遇、船上にて吉祥天女の霊験を得て入唐。任務を終え帰国後、自邸内にお堂を建て吉祥天女の尊像をまつったことが吉祥院の由来で地名の起源となっている。境内には道真公のへその緒を埋めたと伝えられる胞衣[えな]塚をはじめ、少年時代習字に使用したという硯の水や顔を写したと伝える鑑[かがみ]の井などがある。
京都に現存する多くの文化財的建造物のうち、日本の伝統となりうる文化を新しく生み出した国宝級の神社仏閣など全17件が登録されている。詳細は、京都市の賀茂別雷神社(上賀茂神社)、賀茂御祖神社(下鴨神社)、教王護国寺(東寺)、清水寺、醍醐寺、仁和寺、高山寺、西芳寺(苔寺)、天龍寺、鹿苑寺(金閣寺)、慈照寺(銀閣寺)、龍安寺、西本願寺、二条城、宇治市の平等院、宇治上神社、京都市と滋賀県大津市にまたがる延暦寺。これらは8~17世紀にわたって京都が日本の建築と庭園設計の中心地であったことを物語っており、とくに庭園においては、19世紀以降、世界各地に価値のある影響を与えたとユネスコにも高く評価されている。
仁安元年(1166)、この地に別邸を構え西八条御所とした平清盛公が、邸宅内の鎮守社として建立。
三十三間堂の東側にあり、淀殿が文禄3年(1594)に父浅井長政の菩提寺として建立。その後火災に遭い、淀殿の妹で徳川秀忠の夫人である崇源院が元和7年(1621)に伏見城の旧材を使って再建。本堂廊下の上の天井は「血天井」と呼ばれ、伏見城が落城した時、徳川家康の部下だった鳥居元忠らが自刃した際の血痕が付いた床板を使用したものという。俵屋宗達の描いた杉戸絵(重要文化財)・襖絵(重要文化財)や狩野山楽筆の襖絵も見逃せない。
新京極にあり、藤原道長が和泉式部のために建てた小御堂が始まり。境内北側の墓地に高さ4mの和泉式部供養塔がある。
京都で最も賑やかな錦市場のほど近くにある天満宮。ご祭神は菅原道真公で、学問の祈願はもちろん、市場に近いことから商売繁昌にもご利益があると伝わる。錦の天神さんとよばれ、親しまれている。
織田信長が明智光秀に討たれた寺として知られているが、当時は四条西洞院にあった。天文15年(1587)、現在地に移転。境内には信長の供養塔も立つ。
永仁2年(1294)に創建された本門法華宗の大本山。天明の大火で焼け残った鐘楼は数少ない本格的袴腰型鐘楼で、江戸時代を代表する建造物だ。「十六羅漢の庭」と呼ばれる石庭もある。松尾一切経や長谷川等伯一派の襖絵の見学は要予約。本阿弥光悦の書などの寺宝は特別展(不定期)にのみ展示している。
運行情報はありません。
路線が登録されていません。
路線登録で登録した路線の運行情報が表示されます。
路線を登録すると、登録した路線の運行情報が右サイドで表示される機能です。
トップページ、電車関連ページで表示されます。
エリアを登録すると、登録したエリアの天気情報が表示されます。