戒光寺
鎌倉時代中期に後堀河天皇の勅願所として建立。御本尊は運慶・湛慶親子合作で全長10mの木像の釈迦如来像(重文)。幾度かの移転の後、江戸時代に後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺されかかったときにこのお釈迦様が身代わりに立たれたことから御寺泉湧寺の塔頭となった。
- 「東福寺駅」から徒歩13分/「鳥羽街道駅」から徒歩20分
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鎌倉時代中期に後堀河天皇の勅願所として建立。御本尊は運慶・湛慶親子合作で全長10mの木像の釈迦如来像(重文)。幾度かの移転の後、江戸時代に後水尾天皇が即位争いに巻き込まれ暗殺されかかったときにこのお釈迦様が身代わりに立たれたことから御寺泉湧寺の塔頭となった。
嘉禎2年(1236)に建立された禅刹で、京都五山の一つ。境内は広く、日本最古の三門(国宝)、禅宗寺院様式の東司[とうす](トイレ、重要文化財)、堂本印象が龍を天井に描いた本堂などが立つ。本坊の庭園は東西南北それぞれ趣が異なり、苔と敷石とが市松模様になっている北庭が特に名高い。洗玉澗[せんぎょくかん]に架かる、通天橋[つうてんきょう]付近の紅葉もみごと。秋の拝観期間中は駐車場が閉鎖されているので注意。
全国で約3万社を超える稲荷神社の総本宮。商売繁昌、五穀豊穣の神として有名。二の鳥居をくぐると、天正17年(1589)に豊臣秀吉が寄進した朱塗りの楼門(重要文化財)がある。本殿(重要文化財)は、明応8年(1499)再興し檜皮葺き。本殿背後にある鳥居のトンネルをくぐれば奥社奉拝所。稲荷山への登り口である。高さ233mの山には、至る所にお塚があり、それを巡拝する「お山めぐり」は約4km、2時間ほどかかる。
慈悲の女神、九頭竜弁財天を祀る。本殿を時計回りに9回まわるお千度や、神様より言葉をもらうおみくじが有名。災厄消除をはじめあらゆるご利益がある。
天台声明の根本道場として開山された寺。文治2年(1186)、浄土宗祖法然上人が諸学の学僧と宗論をした、「大原問答」の舞台として有名だ。この問答で、阿弥陀仏の名を唱うれば仏様の願力によって衆生が救われると法然が説いたところ、阿弥陀如来が手から光明を放ったといわれる。このことから、本尊を「証拠の阿弥陀」と呼ぶようになった。また子院に実光院と宝泉院がある。
暦応4年(1341)、足利尊氏建立による足利家の菩提寺。初代尊氏から15代義昭まで歴代将軍の木像(5、14代を除く)を安置する霊光殿がある。夢窓疎石の作と伝えられる庭園は、東の心字池と西の芙蓉池の2つによって構成されている。特に書院から眺める西庭は石組がダイナミックで、池に架かる石橋など凝った造りになっている。
化野と呼ばれるこの一帯は、かつて亡骸を葬る風葬の地だった。寺の起こりは、弘法大師がこの地に葬られた死者の菩提を弔うために寺を建てたことによる。のちに法然上人が念仏道場に改め、念仏寺と称した。境内には無縁仏となった約8000体もの石仏や石塔が並ぶ。
大正14年(1586)御所の鬼門守護であった鳥樞沙摩明王[うすさまみょうおう]を裏寺町四条の大龍寺へ勧請、その後昭和52年(1977)現在の地へ移転。秘仏の鳥沙枢摩明王は北方守護の明王で、その烈火で一切の不浄を焼き尽くし清浄に変えるといわれる。古より安産守護や腰より下の病に霊験あらたかとされ、お手洗いに護符を祀り真言を唱えれば患いなしと崇言されている。鳥樞沙摩堂正面には二代目中村鴈治郎、四代目坂田藤十郎(二代目中村扇雀)らが芸能上達を願って奉納したガタロ(河童)が祀られており、軒下の十二支絵馬目当ての参詣者も多い。
役行者が開き、最澄が再興したが、仁寿2年(852)に勝持寺と改名したと伝える。西行がここで庵を結び1株の桜を植えて吟愛したことから、この桜を「西行桜」と呼び、以後「花の寺」と親しまれるようになった。春は境内が桜で覆われる。本尊に薬師如来像(重要文化財)を祀り、近年まで預かっていた如意輪観音半跏像(国宝)は、東隣の願徳寺(料金:300円、2月のみ要予約)で拝観できる。
泉涌寺の別院。南北朝時代の北朝の天皇の位牌を安置する霊明殿と、本堂(重要文化財)がある。庫裏に安置されている真っ黒な色をした鎌倉時代の大黒天像は、左足を一歩踏み出した姿勢がユーモラスで、「走り大黒」と呼ばれている。写経体験(拝観料・抹茶・菓子付き2000円)も開講。写経受付時間は9~15時。
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