
大石良雄宅跡
大石神社境内にある内蔵助の屋敷跡。大石家3代が57年間住んだという。長屋門は城内に残る数少ない江戸時代の建築の一つで、主君の刃傷事件を知らせる萱野三平たちがこの門を叩いた。軒先の丸い鐙[あぶみ]瓦には大石家の定紋・二ツ巴が見える。庭園を含む屋敷跡は国指定史跡に指定。
- 「播州赤穂駅」から徒歩17分
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大石神社境内にある内蔵助の屋敷跡。大石家3代が57年間住んだという。長屋門は城内に残る数少ない江戸時代の建築の一つで、主君の刃傷事件を知らせる萱野三平たちがこの門を叩いた。軒先の丸い鐙[あぶみ]瓦には大石家の定紋・二ツ巴が見える。庭園を含む屋敷跡は国指定史跡に指定。
平成11年(1999)4月、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいに解体・復元され一般公開された。源八は藩の重職を務め、大石家と親戚関係だったが、討入りには加わっていない。
姫路城内にある播州皿屋敷に登場する井戸だといわれる。家宝の皿10枚のうち1枚をなくした罪をきせられ、殺されて井戸に投げ込まれたお菊の亡霊が「1枚、2枚…」と悲しげに皿を数える声が夜毎、この井戸から聞こえたという。ぬの門の先の上山里曲輪にある。
姫路城内にあり、千姫の侍女たちがいた西の丸の長局[ながつぼね](百間廊下)の先にある2層の櫓。廊下から見える男山の天満宮を毎日拝んでいたという千姫が、ここで休息をとったとか。
姫路城の屋根に一対の大鯱[おおしゃち]瓦をのせ、外観は5重、内部は地下1階、地上6階。石垣まで含めた高さは46m余りで、三角形の千鳥破風とゆるやかな曲線を描く唐破風の屋根がみごとに調和している。
主君浅野内匠頭長矩[あさのたくみのかみながのり]の刃傷事件を急報するため、江戸から早かごで四昼夜半を駆け抜いた早水藤左衛門[はやみとうざえもん]と萱野三平[かやのさんぺい]が城に入る前、一息ついたという井戸。赤穂では井戸水に海水が混じるため、江戸初期に千種川上流から水を引いて上水道を整備した。この井戸にも上水道が引かれ、人々の暮らしを支えた。日本三大上水道の一つとされる。
慶長14年(1609)、篠山城とほぼ同時期に建てられ、藩の公式行事などに使用された大書院。火災で焼失したが、地元の多くの人々の長年の願いを受けて、平成12年(2000)に復元再建。大書院の中で最も格式の高い部屋「上段の間」は必見。
龍野藩主だった京極家は四国丸亀に移封された後も、網干の興浜や浜田など28カ村を飛領として支配し、陣屋を設けた。京極家の紋瓦がある現在の陣屋門は老朽化した旧陣屋門を参考にして改築されたもので、昔の建物などは明治期に取り壊された。
常陸国笠間から入封した浅野長直が13年の歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成。播磨灘に面して築かれた海城(平城)で、天守台はあるが天守閣はない。縄張は、本丸を中心に二之丸が同心円状に囲む輪郭式だが、三之丸が二之丸の北に張り出した変形輪郭式。浅野家断絶後、城は永井家、森家に引き継がれた。明治の廃藩置県後に取り壊されたが、昭和30年(1955)に大手門の一部と大手隅櫓が復元。大手門から入った道筋に大石良雄宅跡があるのは、当時藩邸や家老、藩重臣の屋敷を城内に置いたためだ。
慶長14年(1609)に徳川家康が築城の名手・藤堂高虎に縄張りを命じ、池田輝政に総指揮を捉せてわずか6カ月余りで築かせた平山城。明治時代の廃城令で建物の大半が取り壊されたが、城跡二の丸の本格木造建築の大書院のみが残り小学校などとして使われ続け、昭和19年(1944)に失火で消失。平成12年(2000)に復元再建された。狩野派の屏風絵を転用した障壁画などを展示。雄大な石垣を囲む外堀の周辺は桜の名所でもある。
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