
辰鼓楼
出石城旧三の丸大手門の一角にある、明治4年(1871)建築の櫓。太鼓で時を告げていた。現在は時計台として利用されている。出石城旧三の丸大手門の一角にあり、櫓自体は明治4年(1871)の完成だが、後の明治14年(1881)に旧藩医池口忠恕氏が大時計を寄贈し、以来時計台として利用されている。現在の時計は4代目。
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出石城旧三の丸大手門の一角にある、明治4年(1871)建築の櫓。太鼓で時を告げていた。現在は時計台として利用されている。出石城旧三の丸大手門の一角にあり、櫓自体は明治4年(1871)の完成だが、後の明治14年(1881)に旧藩医池口忠恕氏が大時計を寄贈し、以来時計台として利用されている。現在の時計は4代目。
慶長9年(1604)、有子山の麓に小出吉英[こいでよしふさ]が築いた平山城の城跡。江戸時代には出石藩の本城として約260年間利用された。現在は本丸跡に隅櫓[すみやぐら]が復元されている。その横に延びる157段の石段には37基の鳥居が並ぶ。ここは城山稲荷と呼ばれ、信仰の対象としても親しまれてきた。春には桜の名所として多くの人が訪れる。
姫路城内にある播州皿屋敷に登場する井戸だといわれる。家宝の皿10枚のうち1枚をなくした罪をきせられ、殺されて井戸に投げ込まれたお菊の亡霊が「1枚、2枚…」と悲しげに皿を数える声が夜毎、この井戸から聞こえたという。ぬの門の先の上山里曲輪にある。
町を見下ろす鶏籠山の麓に立つ。昭和50年代に本丸御殿、隅櫓、多聞櫓、埋門などが整備されている。優美な大屋根を持つ本丸御殿は一般的な城のイメージと違って、入母屋造、瓦葺の平屋建ての造りが特徴で内部の見学もできる。鶏籠山山頂に室町末期の山城跡が残っている。
慶長14年(1609)、篠山城とほぼ同時期に建てられ、藩の公式行事などに使用された大書院。火災で焼失したが、地元の多くの人々の長年の願いを受けて、平成12年(2000)に復元再建。大書院の中で最も格式の高い部屋「上段の間」は必見。
『暗夜行路』などを書いた大正・昭和の小説家・志賀直哉。城崎温泉は、大正2年(1913)、電車にはねられて負傷した志賀直哉が療養した温泉地として知られる。その際に執筆した『城の崎にて』の言葉が記された文学碑が城崎文芸館前に配されている。城崎温泉の温泉街に建てられた24点の文学碑のうちの一つだ。
龍野藩内屈指の大地主で、藩から在郷家臣の待遇を受けた永富家の住宅で、江戸後期の豪農の暮らしを今に伝えている。文政5年(1822)に完成した入母屋造・本瓦葺の主屋は建物だけで500平方m余り。この主屋と長屋門、籾納屋、土蔵5棟、建築時の記録を記した絵図面、普請帳[ふしんちょう]が重要文化財に指定されている。
河原町はかつて城下町の商業の中心として賑わいをみせた町。現在も間口が狭く、奥行きの長い妻入りの建物が立ち並ぶ。表構えの大戸や千本格子など江戸時代を偲ぶ町並みの中に、みやげ物店などが点在し、国重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
慶長14年(1609)に徳川家康が築城の名手・藤堂高虎に縄張りを命じ、池田輝政に総指揮を捉せてわずか6カ月余りで築かせた平山城。明治時代の廃城令で建物の大半が取り壊されたが、城跡二の丸の本格木造建築の大書院のみが残り小学校などとして使われ続け、昭和19年(1944)に失火で消失。平成12年(2000)に復元再建された。狩野派の屏風絵を転用した障壁画などを展示。雄大な石垣を囲む外堀の周辺は桜の名所でもある。
平成16年(2004)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された「篠山の町並み」。篠山城跡の周囲に町割された旧武家町と旧商家町からなり、東西約1500m、南北約600mに古い武家屋敷や町家が軒を連ねている。旧武家町は、篠山城の西側に位置する御徒士町[おかちまち]通り(西新町)から南新町、東新町付近。小林家長屋門、安間家史料館が重厚な面影を見せている。旧商家町は、篠山城跡の南東に位置する小川町と河原町付近。江戸末期から昭和初めの町家や土蔵が立ち並び、妻入の中二階建て、桟瓦葺、白壁に出格子の西坂家や川端家などの家々がある。
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