
息継ぎ井戸
主君浅野内匠頭長矩[あさのたくみのかみながのり]の刃傷事件を急報するため、江戸から早かごで四昼夜半を駆け抜いた早水藤左衛門[はやみとうざえもん]と萱野三平[かやのさんぺい]が城に入る前、一息ついたという井戸。赤穂では井戸水に海水が混じるため、江戸初期に千種川上流から水を引いて上水道を整備した。この井戸にも上水道が引かれ、人々の暮らしを支えた。日本三大上水道の一つとされる。
- 「播州赤穂駅」から徒歩6分
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主君浅野内匠頭長矩[あさのたくみのかみながのり]の刃傷事件を急報するため、江戸から早かごで四昼夜半を駆け抜いた早水藤左衛門[はやみとうざえもん]と萱野三平[かやのさんぺい]が城に入る前、一息ついたという井戸。赤穂では井戸水に海水が混じるため、江戸初期に千種川上流から水を引いて上水道を整備した。この井戸にも上水道が引かれ、人々の暮らしを支えた。日本三大上水道の一つとされる。
平成11年(1999)4月、大石良雄宅跡長屋門の斜め向かいに解体・復元され一般公開された。源八は藩の重職を務め、大石家と親戚関係だったが、討入りには加わっていない。
海産物問屋「魚屋」の豪商の遺構。江戸時代、室津が最も栄えていた頃の面影を残す貴重な建物で、玄関は吊り上げ式二重戸。兵庫県の重要文化財にも指定されている。革細工、ひな人形、登城かごなどの展示もある。所要20分。
慶長14年(1609)に徳川家康が築城の名手・藤堂高虎に縄張りを命じ、池田輝政に総指揮を捉せてわずか6カ月余りで築かせた平山城。明治時代の廃城令で建物の大半が取り壊されたが、城跡二の丸の本格木造建築の大書院のみが残り小学校などとして使われ続け、昭和19年(1944)に失火で消失。平成12年(2000)に復元再建された。狩野派の屏風絵を転用した障壁画などを展示。雄大な石垣を囲む外堀の周辺は桜の名所でもある。
常陸国笠間から入封した浅野長直が13年の歳月を費やし、寛文元年(1661)に完成。播磨灘に面して築かれた海城(平城)で、天守台はあるが天守閣はない。縄張は、本丸を中心に二之丸が同心円状に囲む輪郭式だが、三之丸が二之丸の北に張り出した変形輪郭式。浅野家断絶後、城は永井家、森家に引き継がれた。明治の廃藩置県後に取り壊されたが、昭和30年(1955)に大手門の一部と大手隅櫓が復元。大手門から入った道筋に大石良雄宅跡があるのは、当時藩邸や家老、藩重臣の屋敷を城内に置いたためだ。
正徳4年(1714)、織田信長直系の信休が造営した藩邸。文政元年(1818)に焼失し、その後再建。現在は当時の約5分の1、旧表御殿の部分だけが残っている。周囲の町並みにも、柏原を統治した織田家ゆかりの建物が数多く残されているので、のんびりと歴史散策を楽しみたい。国指定史跡。内部見学可。
大正12年(1923)に建築され、篠山町役場として、常に篠山観光のシンボル的存在として人気のスポット。大正ロマネスクの雰囲気漂う館内には、篠山の特産品を扱うショップやレストランがある。
天保3年(1832)に完成。赤穂藩の茶屋としても利用され、2階には藩主専用の部屋もある。
河原町はかつて城下町の商業の中心として賑わいをみせた町。現在も間口が狭く、奥行きの長い妻入りの建物が立ち並ぶ。表構えの大戸や千本格子など江戸時代を偲ぶ町並みの中に、みやげ物店などが点在し、国重要伝統的建造物群保存地区に指定されている。
平成16年(2004)に国の重要伝統的建造物群保存地区に選定された「篠山の町並み」。篠山城跡の周囲に町割された旧武家町と旧商家町からなり、東西約1500m、南北約600mに古い武家屋敷や町家が軒を連ねている。旧武家町は、篠山城の西側に位置する御徒士町[おかちまち]通り(西新町)から南新町、東新町付近。小林家長屋門、安間家史料館が重厚な面影を見せている。旧商家町は、篠山城跡の南東に位置する小川町と河原町付近。江戸末期から昭和初めの町家や土蔵が立ち並び、妻入の中二階建て、桟瓦葺、白壁に出格子の西坂家や川端家などの家々がある。
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