蒲原宿お休み処
浮世絵師・歌川広重の出世作、『東海道五拾三次』の「蒲原夜之雪」で知られる宿場。宿内には江戸後期築の旅籠・和泉屋(現在はお休み処と鈴木たばこ店)をはじめ、大正時代築の洋館・旧五十嵐歯科医院など見どころいっぱい。
- 「新蒲原駅」から徒歩3分
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浮世絵師・歌川広重の出世作、『東海道五拾三次』の「蒲原夜之雪」で知られる宿場。宿内には江戸後期築の旅籠・和泉屋(現在はお休み処と鈴木たばこ店)をはじめ、大正時代築の洋館・旧五十嵐歯科医院など見どころいっぱい。
田中藩(約4万石)藩主の下屋敷跡。庭園を復元し、田中城ゆかりの建築物を移築するなど、田中城の歴史が偲ばれる。所要30分。
村山浅間神社は明治時代の初めまで京都の聖護院を本寺とする修験道の拠点で「富士山興法寺」と称し、富士修験の中心地であった。戦国時代には、時の権力者である今川氏の庇護を受け、数多くの先達や道者(登山者)が集い、富士登山の中心地として栄えた。明治時代には、神仏分離法を受けて興法寺は廃され、大日堂と浅間神社は分離された。土・日曜、祝日には村山浅間神社案内所が開所され、富士山世界遺産ガイドが常駐。世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉」の構成資産の1つ。
山宮浅間神社は、富士山本宮浅間大社(以下「浅間大社」と略記)の祭神である富士神が最初に祀られた場所と言われ、浅間神として現在の浅間大社に遷されることで「山宮」となった。全国の浅間大社の中でも最も古い神社とされる。境内には社殿がなく、富士山を直接拝むための遥拝所があり、古代からの富士山祭祀の形が今も息づいている。土・日曜、祝日には山宮浅間神社の案内所が開所され、富士山世界遺産ガイドが常駐。世界遺産「富士山-信仰の対象と芸術の源泉-」の構成資産の1つ。
JR金谷駅の南にある東海道の難所として知られた金谷峠。文政年間(1818~29)、幕府の命令によって、近隣の村人が滑り止めの石を敷き詰めた歴史を持つ。平成3年(1991)には「町民一人一石運動」によって、消滅しかけた金谷坂の石畳430mが復元され、深々とした木立の中、当時を偲びながら風情ある旧東海道を歩けるようになった。また、JR金谷駅西方の旧菊川宿近くにある菊川坂でも江戸後期の石畳が発掘され、平成13年(2001)には町内外の人々の手によって611mの石畳が復元されている。
元亀元年(1570)、徳川家康が遠州攻略の拠点に築城。徳川の治世はここから始まったともいえ、その後代々の譜代大名が居城としたことから別名「出世城」とも呼ばれる。城跡は浜松城公園として整備。築城当時の姿を残す石垣の上には、昭和33年(1958)再建の天守閣がそびえる。天守閣内部では鎧や刀剣などを展示。最上階の展望回廊は浜松市内が一望できるビュースポットだ。桜の名所でもある。
慶長5年(1600)、徳川家康により、東海道の通行人を調べるために創設された関所。「入鉄砲[いりてっぽう]に出女[でおんな]」といわれ、鉄砲と女性は特に厳重な取り調べを受けた。江戸時代後期の建物が現存する全国で唯一の関所跡で、国の特別史跡に指定されている。
ウィリアム・アダムスの功績をたたえたもので、松川河口に架かるなぎさ橋のたもとに立つ。イギリス生まれのアダムスはオランダ商船隊の水先案内人を勤めていたが、慶長5年(1600)に船が難破して九州に漂着。その後、徳川家康の信任を得て日本に帰化。三浦按針と名乗り、伊東で日本最初の西洋式帆船を建造した。按針記念碑やイギリス詩人エドマンド・ブランデンによる詩碑が建っている。
尾崎紅葉の小説「金色夜叉」に登場する貫一とお宮。この2人が別れの場面を迎える海辺に、心変わりの許しを請うお宮と、それを足蹴にする貫一の姿の像が立っている。この愛憎物語の舞台は、今や恋人たちのラブスポットとなっている。
来宮駅の南にある坪内逍遙[つぼうちしょうよう]の邸宅。屋敷は大正9年(1920)に建てられたもの。逍遙は、ここでシェークスピアの全訳を完成させた。建物は木造2階建ての日本家屋。庭先には名前の由来となった2本の柿の木と書斎がある。また、100m南の海蔵寺には逍遙夫妻の眠る墓がある。双柿舎の見学には身分証明書が必要。所要1時間。
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