飛鳥寺
蘇我馬子の発願で推古4年(596)に完成した、日本初の本格的寺院。塔を3金堂が囲む大寺だったが、鎌倉時代に伽藍の大半を焼失した。現在の本堂は江戸時代の再建だが、本尊銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時の飛鳥時代の作。飛鳥大仏の名で親しまれる。
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蘇我馬子の発願で推古4年(596)に完成した、日本初の本格的寺院。塔を3金堂が囲む大寺だったが、鎌倉時代に伽藍の大半を焼失した。現在の本堂は江戸時代の再建だが、本尊銅造釈迦如来坐像(重要文化財)は創建時の飛鳥時代の作。飛鳥大仏の名で親しまれる。
西国三十三カ所観音霊場第7番札所。奈良時代作の本尊如意輪観音坐像(重要文化財)は高さ4.6m、わが国最大の塑像で、厄除け観音として信仰を集める。草壁皇子の岡宮を義淵[ぎえん]僧正がもらい受け、寺にしたのが始まりというが、当初の伽藍は別の場所にあった。現在は山腹に江戸時代の書院(重要文化財)や仁王門(重要文化財)、本堂がたたずむ。境内はシャクナゲやサツキの名所でもある。
大化元年(645)創建。本尊の文殊菩薩は鎌倉時代の大仏師・快慶作の国宝で日本最大(7m)。平安時代から魔除け・災難除けの守り神として尊崇されている陰陽師・安倍晴明公ゆかりの寺であり、全国から参拝者が絶たない。境内文殊池中央に浮かぶ金閣浮御堂霊宝館は、魔除け・災難除けの願掛け道場となっており、この御堂の回廊を自分自身が7回廻って、厄・災難を払う「災難除け七参り」を申し込むと「おさめ札と肌守り」が授与され堂内の宝物拝観ができる。
和爾下神社古墳の後円部に立ち、本殿(重要文化財)は桃山時代の建築様式を残す。付近は古代豪族、和爾氏の本拠地と伝わり、和爾氏の祖神を祭っている。神社の境内には柿本人麻呂の墓といわれる、歌塚と刻まれた石碑が立つ。
境内は祭神の一言主大神が現れた神降の地とされ、神秘的な雰囲気が漂う。正しくは葛城一言主神社。一言主神は雄略[ゆうりゃく]天皇が葛城山を訪れた際にも現れ、「吾[あ]は悪事[まがごと]も一言、善事[よごと]も一言、言離[ことさか]の神、葛城の一言主の大神なり」と名乗ったという。地元で「一言さん」と親しまれ、一言の願いなら何でもかなうと信じられている。境内には推定樹齢1200年の大イチョウや土蜘蛛[つちぐも]を埋めたとされる蜘蛛塚、松尾芭焦の句碑などもある。
奈良時代に元正天皇の勅願で行基が開いた高天寺に始まると伝わる。金剛山中腹の台地に立つこの寺の背後が高天原の伝承地。静かな一帯はまさに神々のふるさとを思わせる。
多武峰山麓の高台にあり、境内からは三輪山や箸墓[はしはか]古墳をはじめ大和盆地を一望できる。和銅5年(712)、藤原鎌足[かまたり]の長男定慧[じょうえ]の創建と伝えられ、和辻哲郎が『古寺巡礼』で気高いその姿を絶賛した十一面観音立像(国宝)は、天平彫刻の傑作としてあまりにも有名。江戸時代作の本尊丈六子安延命地蔵に、安産と子授けの祈願に訪れる人も多い。
本尊は奈良時代作と伝わる十一面観音。織田家2代高長はこの観音を深く信仰し、寺を織田家の祈願所とした。薬草料理3800円(要予約)も寺の名物となっている。
門前に「史跡天誅組本陣址」の石標が立つ。大和に挙兵した天誅組は文久3年(1863)8月に五條代官所を襲撃、この寺を本陣とし五條仮政府を設けたことから、明治維新発祥の地ともいわれる。本堂前には、代官鈴木源内ら5人の首を洗ったという石手水鉢[ちょうずばち]が置かれている。
水の分配を司る天之水分[あめのみくまり]大神を主祭神に、玉依姫命(神像は国宝)以下6柱の神を祀る世界遺産の神社。子守宮ともいい、子授け・安産・子どもの守護神としての信仰が篤い。豊臣秀吉が子授け祈願をし、その子秀頼を授かったことから、社殿はその申し子である秀頼が慶長9年(1604)に再建したもので、桃山建築の三殿一棟の本殿、幣殿、拝殿、楼門は国の重要文化財に指定された美しい建築。
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