
高梁市武家屋敷・旧折井家
天保年間(1830~43)に建てられた漆喰壁をもつ屋敷。母屋は格式のある書院造。中庭の池や庭石、踏み石などは当時のまま残っており、その中庭に面して資料館がある。
- 「備中高梁駅」から徒歩21分
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天保年間(1830~43)に建てられた漆喰壁をもつ屋敷。母屋は格式のある書院造。中庭の池や庭石、踏み石などは当時のまま残っており、その中庭に面して資料館がある。
市街地北端の臥牛山に築かれた山城で、美濃の岩村城、大和の高取城とともに日本三大山城の一つ。今も山上には堅牢な石垣がそびえ威風堂々たる佇まいだ。天守、二重櫓、土塀の一部が現存し、国の重要文化財に指定されている。現存天守の中で唯一の山城で標高430mにあり、二の丸からは高梁市街の景色を見下ろせる。天守1階には囲炉裏と装束の間が、2階には御社壇がある。天守裏から通じる二重櫓は2層2階建ての構造で高石垣も圧巻。雲海が出る時期は9月下旬~4月上旬の明け方から8時頃まで。特に10月上旬~12月上旬の朝と日中の気温の差が大きい場合に濃い朝霧ができる。
藤田家は代々醤油を製造していた商家。この屋敷は江戸時代末期に建てられ、明治以降に本瓦葺き入母屋造の漆喰塗りという豪壮なものに改築された。裕福な商人の暮らしぶりが伝わり興味深い。
昭和46年(1971)までベンガラ製造を続けた片山家(胡屋)の屋敷。銘木をふんだんに用いた座敷や、通り土間に面した店の間、台所などがある2階建ての母屋と、ベンガラ製造の作業場や蔵が、国の重要文化財に指定されている。
近代化遺産に指定されている吉岡(吹屋)銅山の坑道の一つ。戦国時代から銅山として知られ、昭和47年(1972)まで黄銅鉱と磁硫鉄鉱を産出した。約320mにわたって坑道が復元され、江戸時代の手掘りの跡が残る内部を見学できる。
足守地区約300戸のうち約100戸が、漆喰壁・虫籠窓などをもつ江戸時代の伝統的家屋の姿をとどめており、今も陣屋町の面影が残る。侍屋敷や豪壮な旧足守商家藤田千年治邸、備中足守まちなみ館など(いずれも9時~16時30分、月曜・祝日の場合は翌日休み)、見どころも多い。
標高397mの鬼城山[きのじょうざん]の頂上付近に築かれた古代山城の遺跡。百済[くだら]の王子・温羅[うら]の砦だったという伝説があり、昔話『桃太郎』は、吉備の国開拓の祖神とされる吉備津彦命が悪行を重ねていた鬼ノ城に住む温羅を征伐した温羅退治伝説がルーツだと伝えられている。約2.8kmにも及ぶ石垣や土塁の城壁に取り囲まれた約30万平方mの城内には、建物の礎石や鍛冶場跡、溜井(水汲み場)跡などが残り、西門と角楼が復元されている。国指定史跡。
江戸時代中期から後期にかけて、近習役や番頭役などを務めた武士の住宅。松山城下の武家屋敷としては寺院建築や数寄屋風の要素を取り入れた珍しい造りで、市の重要文化財に指定されている。
江戸末期、銅山とベンガラの原料となるローハの製造で巨万の富を築いた豪商の邸宅。城郭を思わせる立派な構えに当時の繁栄ぶりがうかがえる。2階建ての母屋、3棟の土蔵、桜門、長屋、石垣は文化2年(1810)の建築。庭園には水琴窟もある。映画『八つ墓村』のロケ地になったところとしても有名だ。ベンガラ館から広兼邸へ行く途中には、笹畝坑道[ささうねこうどう]があり、銅山を掘った跡もみることもできる。
慶長2年(1597)頃、宇喜多秀家[うきたひでいえ]により天守完成。小早川秀秋を経て、江戸時代には池田家が治める。土台が不等辺5角形の天守は、戦災で焼失したが、外壁が漆黒の下見板だったといわれ、烏城[うじょう]の別名を持つ。昭和41年(1966)に再建。月見櫓と西の丸西手櫓は現存していて国の重要文化財になっている。
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